1960年代から70年代にかけて活躍した小説家、辻邦夫の作品。
「初期の最高傑作」と評されることが多いようです。
他には毎日芸術賞を獲った「背教者ユリアヌス」、谷崎潤一郎賞を獲った「西行花伝」が有名でしょうか。
とはいえ、川端康成や三島由紀夫のようなビッグネームと比べると現代までその名前が残っているとは言い難いかもしれません。
さて、肝心の内容ですが、いかにも古い文学作品という様相です。
文体や情景としての美しさはあるものの、物語としてはとりとめのない話が続きます。
確かに場面場面の読みごたえはあり、文学作品として本作を好む人がいるのは分かりますが、「物語」を楽しむという本ブログの趣旨からすると評価は1点にせざるを得ないといったところです。
あらすじ
デンマークで織物工芸を学んでいた支倉冬子という女性がある日、ヨットで孤島へと旅立ったまま消息を絶ってしまう。
彼女の遺品を収集し、整理する「私」。
その記録からは、冬子の生い立ちや、彼女の人生転換の契機となる「グスターフ候のタピスリ」という作品との出会い、そしてデンマークで育んだギュルテンクローネ姉妹との友情が伺い知れる。
芸術に人生を捧げた女性の儚く切ない生涯と、彼女の生き方に影響を与えた人々の面影を描く。
感想
現代ではあり得ない(きっと商業出版はされない)と言っていいような、古典文学の時代だからこそ許されていた構成の小説です。
突如失踪してしまった若い女性の生涯を辿っていくという体裁をとっているのですが、なんと幼少期の話で小説のほとんど半分を占めています。
それも、ドラマや起伏のある物語ではなく、家族や友人、召使いやその子供との取り留めのない交流が延々と描かれます。
もちろん、その描かれ方は実に耽美なものなのですが、これといって取り上げる要素のない内容ばかりで、結局、いったい何がしたかったのかという話になっています。
それゆえ、現代の小説や漫画を読み慣れた読者であればあまりのつまらなさに途中で投げてしまうこと請け合いでしょう。
幼少期独特のたわいもない楽しみや得体の知れない残酷さ。
そういった幼少期の思い出に対して、大人になってから感じる郷愁。
そういった感情にうまく浸ることができなくては本書を読み進めることは難しいと思われます。
幼少期のエピソード以外の部分では、デンマークでのギュルテンクローネ家との出会いや、「グスターフ候のタピスリ」という芸術作品にまつまる話が展開されます。
ギュルテンクローネ姉妹との交流話では、妹のエルス・ギュルテンクローネが寄宿学校を抜け出して冬子の入院する病院に侵入することで冬子と出会い、そのことがきっかけとなり姉妹と親交を深めていく過程はまずまずスリリングな側面があり楽しめました。
しかし、冬子と姉妹との関係にそれ以上の進展はなく、あとは抽象的な会話やギュルテンクローネ城の情景描写があるだけでなかなかに退屈させられます。
そして極めつけは、「グスターフ候のタピスリ」に描かれている十字軍時代の貴族グスターフ候の英雄譚。
ちょっとした挿話かと思いきや、これに丸々一章割くのですから驚きです。
普通の小説の中で「三本の矢」のたとえ話が出てきたと思ったら、そのまま毛利三兄弟の生涯を描いた話が始まって、それで一巻分使ってしまいました、というレベルの暴挙だと言えばよいでしょうか。
グスターフ候の英雄譚自体はそれなりに面白く、特に死神との決闘十連戦は読みごたえがありましたが、物語全体からすれば「だから何?」という話になっております。
毛利三兄弟の生涯にはもちろん面白いところがあるのでしょうが、それって小説や漫画の本筋とは全く関係のないことですよね、というわけです。
(「タピスリ」は英語の「タペストリー」と同意で、このような芸術作品のことです)。
ただ、この小説の展開としてはそれで「正解」なのでしょう。
本作は支倉冬子の感性を磨いたあらゆる事象について辿る記録なのである、という主旨説明が冒頭で語られるのですから、冬子の感性に影響を与えたと思われるあらゆる事象が散発的に出現しては消えるという体裁で間違いではないのです。
間違いではないのですが、なにか一本筋の通ったストーリーも起伏もなく、ひたすら散漫に冬子の記憶案内をされるのはかなり辛いところがあります。
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