1. 君の名は。再考
かつて否定的な記事を書いた作品ですが、なぜこの作品が売れたかについてぼんやりと考えておりますと、なんとなく思いついたことがありましたので、「再考」と題してもう一度とりあげようかと思います。
フィクションにおける非リアリティと奇跡についての考察です。
2. 再考
本作品に関してはインターネット上でも様々な議論が行われているようですが、批判の中でも最大のカテゴリとなっているのが「リアリティのなさ」だと思います。
この点においては様々な角度から叩かれていて、現在と三年前の日付・曜日の違いに気づくことで二人は時間を超えた入れ替わりをしていることを早期に悟るはずだという点や、三葉がスマホで何かを調べれば三年後であることも糸守町の事件も分かってしまうこと、瀧くんが糸守の事件を忘れていること(例えば、現代日本において3.11.をうっかり忘れたりするでしょうか)、といったSF的に「不合理」であるという考察はもちろんのこと(前記事ではSF的に合理的だと書いてしまいましたが、議論がある点のようです)、彗星の軌道や停電範囲、停電タイミングのおかしさといった自然科学の論点、糸守町に若者が多すぎるといった社会科学的論点、奥寺先輩のような人物は現実的にいないだとか三葉たちのグループが校庭で弁当を食べているのは奇妙だといった生活密着系の論点まで様々です。
また、そうした「矛盾」系の他に、「ストーリーの薄っぺらさ」という意味でのリアリティのなさを挙げている人々もいます。私も前記事で以下のような感想を述べました。
この手の青春SF恋愛モノにしては、登場人物が人間としてやや無色透明すぎ、あまりに物語の奴隷になっているように思われました。普通の人が高校生の時に異性と身体が入れ替わり、自分が相手側の、相手が自分側の生活を送らなければならなくなったとして、自分の生活を見られる恥ずかしさや、相手の生活で感じる相手の嫌な面に堪えることができるでしょうか。自らのコンプレックスや、親友にさえ隠していることさえ全て見られてしまうわけです。それを考慮すれば答えは否だという人が多いと思います。
ところが、本作では、瀧と三葉は生活全てを曝しあいながら、一向にシリアスな気まずさに陥ることなく、ごく順調に惹かれあっていきます。二人とも(失礼ながら大多数の視聴者、大多数の高校生とは異なり)あまりにも清潔で、魅力「しか」持っていないような人物なのです。一切の生々しさがない、格好悪い泥臭さがない、そんな人物に心から感情移入できるかと問われれば、それは否であると思います。
また、「感動の青春恋愛モノ」と銘打たれることが多い本作ですが、自分の悪い面に悩まされたり、努力しても届かないものがあったり、恋焦がれていた人の悪い意味で意外なところを知ってしまうというような、大きな壁にぶつかって自分の内面と闘う、葛藤するということもありません。誰もが最初から一生懸命で、優しく、勇気があり、努力は必ず良い方向に結実します。「ダメなところがある自分だけど、それも含めて自分なんだと納得する」「努力が無駄になることもあると知ってなお、それでも努力を続けることへの情熱を失わない」「相手のダメな面まで好きになってこそ恋愛である」というような(挙げた例はベタすぎるかもしれませんが)、特別なイベントを経験する中で主人公たちが大切なことに気づく、変わっていくという描写がなく、ただ主要登場人物が十代であるから青春、主人公とヒロインが互いを好き合うから恋愛、と名乗っているだけになってしまっています。
作画を見ても、新海監督が描く美麗な空は素晴らしいものなのですが、確かに、これくらい爽やかさしかない作品ならば、心象風景の面からもいつだって空は綺麗だろうとも思ってしまいます。くすんでいたり、嫌になるくらいのぺっとしていて単調な景色は現れないのは、それを表せるような場面がないのは、それはそれで欠点なのではないでしょうか。
こうした矛盾や薄っぺらさが「気になって仕方がなかった」人々にとっては、この映画は気恥ずかしく、我慢ならないもので、上映中に席を立ったという人までいるそうです。
とはいえ問題なのは、これほど矛盾や薄っぺらさを孕んでいる(と少なくない人が指摘するほどの)作品を、どうして多くの人々が好意的に受け入れるのか、それどころか、最高傑作とまで形容する人まで現れるのかということです。
そこには、上述した矛盾や薄っぺらさがリアリティを阻害してもなお、強烈に感情移入できる要素がこの映画にはあったからでしょう。そして、大ヒットの規模からして、それは美麗な作画や音楽と言ったストーリー外の演出だけに起因するものではないのでしょう。
それでは、その要因とは何なのでしょうか。俗な言葉で表現するところの「キャラクター」であると私は考えたのですが、殊にこの「君の名は」においては、フィクションにおける「奇跡」と「リアリティ」の関係性に、この「キャラクター」が意外だが王道という形で入り込んでいます。
そもそも、なぜ物語には「リアリティ」が必要なのでしょうか。ノンフィクションならば「リアル(=事実)」が描かれていなければ「それが事実に基づいている」というノンフィクションならではの固有価値を潰してしまいますが、フィクション作品についてはそうではありません。最初から「嘘」が混じっていることが了解されたうえで作品は視聴されます。それどころか、「嘘」で塗り固められた作品も人気を博しているわけです。ドラゴンボールやナルトを例に挙げるまでもないでしょう。
とはいえ、作品の性質ごとに期待/想定される「嘘」度合いがずいぶん異なっているのは誰もが感覚的に理解していることです。例えば、「相棒」はリアリティのある警察組織の中で異彩を放つ刑事が活躍するからこそ視聴者は痺れます。現実を生きる視聴者にとって、前例主義やしがらみに纏わりつかれる現実的労苦はフラストレーションとなって身体中に溜まっており、それを(たとえ嘘の物語の中であっても)スカッと解決してくれるからストレスの発散になるわけです。物語の肝となる「嘘」以外の部分で視聴者が感じている/感じていた現実的諸問題にリンクしていなければ、感情移入は基本的に難しいのです。「逃げ恥」や「リーガル・ハイ」、「半沢直樹」でも同じことが言えるでしょう。
これは嘘で塗り固める系の作品でも同様です。例えば、初期のナルトにおいて、ナルトはその生い立ちのためにいつも蔑まれる存在でした。そんなナルトが悪戯ばかりする理由を、「目立ちたいから、注目して欲しいから、認めて欲しいから」という満たされない自己承認欲求の表れだとイルカ先生は見抜き、「昔の自分もそうだった」としつつ、化物ではなく「うずまきナルト」としてナルトを認めることでナルトの心を解きほぐします。全てがファンタジーな世界観ですが、現実的人間心理が表現されているからこそ、人々は現実をその中に見出し、自分自身を投影できるのです。
しかし、上述のように、この「君の名は」という作品はそのあたりのリアリティ、人間的葛藤をかなり無視しています。それでもなお、多くの人は感情移入することができた。この作品を真に迫るものだと思ったわけです。それでは、リアリティ以外の部分における感情移入の理由とは何なのでしょうか。それは、「物語そのもののリアリティのなさ」を乗り越えて人々を物語に夢中にさせる要素である必要があるという条件を考慮すると、存在させることが非常に厳しい要素です。
ですが、その答えは存在します。既に述べているように、「キャラクター」です。キャラクターの中でも、「応援したくなるキャラクター」です。
凡庸に思えるかもしれませんが、この作品はその「応援したくなるキャラクター」の現代的造形が巧妙に挿入されているという点で出色です。
「応援したくなるキャラクター」自体は古典的でベタな概念です。昔のスポ根アニメや成り上がり物語を引くまでもなく、苦境に耐え忍び、より上を目指す人物には「成功して欲しい」と思うのが人間の自然な感情です。
そして、この感情が、物語のフィクションを信じさせるのです。たいていの(凡庸な)物語は「奇跡」のような要素を簡単に取り扱ってしまったり、「奇跡」とまではいかなくともやや矛盾をはらんだ無理のある展開になってしまいがちです。しかし、登場人物たちを「応援したい」という気持ちの強さによっては、その「奇跡」を信じたい/願いたい、あまつさえ矛盾には目をつぶりたい(or登場人物の行動に心を奪われているため矛盾に気づかない)という現象が起こりうるわけです。
ここに、物語が矛盾だらけだろうが薄かろうがヒットすることがあるメカニズムの一つを見出すことができます。
しかしながら、「応援したい」キャラクター造形は昭和の時代にはもう出尽くした感もあります。「こんなに苦しい環境にある主人公を応援してね」、のようなあからさまなやり方では目の肥えた視聴者たちはしらけるだけです。その「苦しい環境」はどうせ嘘ですし、作者の「ヒットさせたい/人気になりたい」願望が見え透いてしまうのです。やたらと苦境にフォーカスし、しつこいくらいにそれを強調するシーンが昔のヒット作品にはよく見られます。
そうした中で、この「君の名は」は面白い手法を採っています。例えば、映画をよく見てみると、瀧くんは父子家庭で、家事を親子で分担して行っていることが分かります。高校生ですがアルバイトに明け暮れる日々で、そのシフトは明らかに遊ぶためのお金の稼ぎ方を凌駕しています。そして、彼は建物やインテリアのデザインに興味があり、自分でデッサンの勉強をしたり、知識を深めている様子が見受けられます。
ただ、そのことは物語中でわざとらしいほどに強調されません。アルバイトをしているのは生活費のためなのか、進学のためなのか、その両方なのか。後から振り返れば想像が膨らみますが、物語を鑑賞しているあいだは本筋に気を取られてその部分の思考が深くは至らないようになっています。
これが本作の素晴らしいところです。「ある日突然、偶然入れ替わりに巻き込まれた」というのが物語の端緒なのであって、「巻き込まれた人物は可哀想な人・特殊な人」を強調することは物語の必然ではありません。だからこそ、本作はそれをしなかったのです。当たり前だと思われるかもしれませんが、多くの作品においては、最初から可哀想要素が強調されたり、中盤で突然その可哀想要素が明らかになったりして、露骨なまでの「可哀想・応援したくなる味付け」が行われます。
しかし、それは本筋(入れ替わりというSF・町を救うというヒーローストーリー・三葉との恋)とは本質的には関係なく、本筋を辿るうえでは作者のエゴイズムが露出したノイズでしかありません。そこをスパッと切った決断は非常に大きいものでしょう。同時に、そうした主人公の「応援したくなる特殊性」がなければ感情移入がなく、ただ本筋が語られただけで何の感動も生まない事態報告になってしまいます。
だからこそ、所々の描写で可哀想要素を入れるわけです。生まれの問題、家庭の環境、夢を目指すことの辛さ、そんな背景が所々でちらつき、しかし、それは特殊なことではない「瀧くんの日常」として淡々と処理され、本筋の盛り上がりが強調される。この「淡々と処理される重い日常」への共感、想い入れが、瀧くんを21世紀の「応援したい主人公」へと押し上げたのだと思います。私たちの日常も、自分一人で、あるいは家族や友人と少人数で背負い込むのには重すぎるのに、社会というやつはそれをまるで背景かのように扱って淡々と時間を過ぎさせてゆきます。可哀想要素がフォーカスされないことまでもが「リアル」であり、そこに瀧くんへの思い入れが生まれ、奇跡がこの人に起こって欲しい、奇跡を信じたいという気持ちが現れ、物語の矛盾や不合理という意味での非リアリティを覆い隠し、奇跡だけが心に流れ込むようにしたのではないでしょうか。
三葉の場合も同様です。都会と隔絶されたどうしようもない田舎に住み、父親は土建政治に明け暮れていて土建関係者以外からは評判も悪く、しかも世間の狭い環境なのでその被害は自分に降りかかってくる(三葉とつるんでいる二人の親の職業を考えると、あのグループが「孤立」グループであるのは明確です。ただ、田舎だともっと土建屋が多いような...)わけです。祖母は因習に囚われがちで、自分自身も巫女としての役割を果たさなければならず、その中には「口噛み酒」という現代の衛生観念や羞恥心では乗り越えがたい仕事も含まれている。三葉の場合はそれらの要素が本筋にも関わるので瀧くんよりも明示的ですが、それでも、「東京に実家があること」のメリットがどんどん大きくなっている今日においては、三葉の境遇に共感する人も多いでしょう。そして、幼くして「働き」、働いていることそのものや労働の内容で蔑まれるというのはまさに昭和の主人公的要素の再来であるわけです。「口噛み酒」が性的な目で見られているシーンに嫌悪感を覚えたという意見も見たことがありますが、それはこの映画の特筆すべき事項だったのだと思います。嫌な役割をこなしている人物、そうでないと、応援したくはなりません。しかし、そういった露骨な「可哀想メッセージ」にならないよう、コミカルに描きながら気持ち悪さを内包させているわけです(新海監督の狙いだったかは分からず、偶然かもしれませんが)。
このような、「可哀想隠れ描写」によって主人公二人を「応戦したい人物」へと巧みに導き、この二人に上手くいって欲しい、奇跡が起きて欲しい、運命の恋であって欲しい、と視聴者に思わせるわけです。そう強く思いこめば思いこむほど、無理のある展開を受けれる下地、もっと言えば、現実を超えた無理のある展開であって欲しいとさえ思う下地を整えているわけです。
21世紀の主人公造形、それは、露骨な可哀想描写に辟易した視聴者に対する王道正面突破ながら驚くべき技巧であり、本作のヒットの最大の要因だと私は考えております。
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