なにせ、クラスの嫌われ者には嫌われるだけの理由があり、その地位を逆転することは絶望的に難しいということは、学校という場所を経験した全視聴者にとって自明のことです。
不人気者をプロデュースする企画を安請け合いするような人物を主人公にしてしまうと、その物語には全くリアリティがなくなってしまい、感情移入が困難になってしまいます。
この難点にブレイクスルーをもたらす画期的な方法として、本作では、「空っぽの自分」を「中身のある自分」に見せかけることに相当程度長けた人物を主人公にするという手法が使われています。
確かに、自分を良く見せかけるために自分自身のことを演出したことが少しもない人はいないでしょうし、その場の空気や価値観に合わせるために、自分の本意でないことを言ったりするなんてことも多くの人が経験しているはずです。
本意を少しばかり手直しして、嘘ではないけれど相手の受け取り方に配慮した言い方にする程度ならば、社会人にとっても学生にとっても日常茶飯事なのではないでしょうか。
そう思うと、「空っぽの自分」を巧みな演出によって誤魔化しまくり、クラスでの地位を得ているという人物設定があったとしても、それは過度な誇張というより一種のリアルな現実描写として受け入れられます。
そして、そんな人物だからこそ、
「中身のないものをいくらでも価値あるものに見せかけることができる」
という考え方にあまり抵抗がない、というも自然な流れです。
ラーメン屋やアイドル、流行曲の例なんかは説得的で、よく考えると非現実的な「野ブタ。をプロデュース」という企画に対して、やろうと思えばやれるんじゃないかという思いが視聴者の心に芽生えてくるよう工夫がされています。
そして、そんな動機から始まるプロデュース作戦が、却って人間の「中身」とは何かについて考える機会を主人公たちに対して与え、彼らの葛藤を通じて視聴者も本作が言わんとしている本質的な事柄に気づいていく。
この構成はなかなか巧妙です。
普通のドラマでは、虚像によって構築されている欺瞞だらけの世界こそが社会の本質なのだと悪役的なポジションの人物が言い、主人公側の人物が「いやそれは違う」と言って勇気や優しさ、情熱について説きます。
しかし、本作では逆に「中身が空っぽでも虚像を作り上げることで成功者になれるのではないか」という動機で主人公たちが行動を起こし、その過程で「人気者」や「成功者」とは何か、人間の本質的な価値、大事にするべきものは何かに気づいていくという展開とすることで、平凡さを回避し、視聴者に新鮮な印象を与えているのです。
プロデュース作戦が具体的に開始される第2話のエピソードは本作のこういった側面を顕著に表しています。
イジメの対象となっている信子は制服にペンキで落書きをされるのですが、修二と彰はそのイジメを逆手に取り、どうしても制服を着られない事情がある場合には私服登校を許可するという校則を利用して、信子にお洒落をさせて学校へと送り出し、周囲の評価を一変させます。
しかしながら、着飾ることで得た人気に、修二も彰も、信子自身もどこか釈然としないものを感じます。
そこで、クライマックスシーンでは、修二と彰が自らの制服に敢えて悪口のペイントを施し、これがいまの流行なんだとばかりにそのペイントされた制服を強調しながら登校するのです。
独創的でアウトローで「かっこ良い」二人の振る舞いにより、修二たちが通う学校では「制服ペイント」が爆発的に流行することで、教師たちが慌てふためく。
信子の制服にイジメの一環として悪口ペイントを施したイジメの主犯たちが、今度は我先にと自分の制服をペイントし始める。
そんな皮肉ながら痛快な結末は、確かに人気ドラマのそれだと思わされます。
流行は誰かによって意図的に作り出されるもの。
そんな醒めた価値観の実現でありながら、その過程において、「周囲に流されず個性的な服を自慢げに着ている人が、却って流行を巻き起こす」のだということを自ら体現した修二と彰。
虚像で人気はつくることができる、でも、その虚像とは何か、本当に人気になるとはどういうことか。
ファッションセンスのある人気者は、お洒落な服も着こなすし、ダサい服も着こなす。
「着こなす」というのは、その服を着てどういう行動をするかなのだ。
服飾は虚像だけれど、服飾と行動の組み合わせは本質的価値なのだ。
そのような価値観の示唆こそ、本作の本質的メッセージになっています。
そしておそらく、こうした本質的なメッセージを、コメディタッチな掛け合いの中で発することで、ゴールデンタイムのドラマとして重くなり過ぎないようにしたいるのでしょう。
実際、クラスでの会話やいじめの手法、つまらない漫才シーンや、美男美女しか立ち読みできない本屋というあり得ない設定、竹刀とジャージの体育教師や、神出鬼没で魔女のような美術教師など、人気のない映画に出てきそうなうすら寒い要素が本作には山ほどあります。
それは、ゴールデンタイムに必要とされる軽薄なノリに必要だから入れているのだと思わされる側面が多く、本質的な部分だけを切り出せば30分ドラマになるのでしょうし、正直なところ、1時間の尺ではうすら寒いシーンの比率が高過ぎて観るのが苦痛になってきます。
本質的なメッセージ性は良い、けれども、相当程度食傷気味にならざるを得ない「テレビドラマ」としての側面が品格を損ない足を引っ張っている。
そんな作品だったというのが総合的な感想です。
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