アメリカのSF作家、ダニエル・キイスの作品で、1959年に中編として、そして1966年には長編に書き直されて発表されています。
ネビュラ賞とヒューゴー賞という権威ある賞を受賞しており、日本でも2015年に新版が出るなど、定評ある古典として読まれ続けています。
感想としては、「手堅い名作」という印象。斬新な設定で唯一無二の地位を確立しており、特殊な題材ながら人を選ばない筆致には素晴らしいものがあります。
一方で、これほど突飛な設定ながらあと一押しとなるようなどんでん返しなどがないところはやや肩透かしでありました。
あらすじ
チャーリィ・ゴードンは知的障がい者で、ビークマン大学知的障がい者成人センターに通いながらパン屋で下働きをしている。
読み書きも碌にできない彼だったが、ある日、ビークマン大学の二―マー教授とストラウス博士からある実験への協力を求められる。
それは、チャーリィの知能を劇的に高める手術のドナーになって欲しいというものだった。
賢くなりたい、賢くなればもっとみんなの期待に応え、仲良くなれるはずだと考えていたチャーリィ。
もちろん、彼はこの依頼を快諾する。手術を受けた彼はゆっくりとしか進まない知能の進歩に苛立ちながらも、同じ手術の動物実験を受けていたネズミのアルジャーノンと知能テストを競うことで、自分が賢くなっていることを感じ始めていく。
そして、チャーリィの知能が閾値を超え始めると、彼の意識は一変する。
周囲の人々の言うことが理解できるという程度ではない。
素晴らしい、天才的な知能を彼は持ち始めるようになったのだ。
しかし、だからこそ、彼に苦難が訪れる。
あまりの知能の違いから人間関係に破綻が生じ始め、社会の欺瞞に気づくたびに葛藤する。
高すぎる知能と、それに付随して生まれてきた高すぎる自尊心。
そして、ニーマー教授が実験の「成功」を発表する学会に彼を同行させたとき、「実験台」として紹介された彼の怒りは頂点に達してしまい......。
感想
知的障がい者が特別な手術を受けて並以上の知能を得る。
それは彼も望んでいたものだったが、事態は彼の思うようには運ばない。
知能を得たことで友情や恋愛の機微に葛藤し、自分を取り巻いている社会の欺瞞が見えてしまう。
そして彼自身も、知能を得たことで彼らしい良さを知らず知らずのうちに失っていってしまう。
こんな物語があると聞かされて、わくわくしない物語好きはいないでしょう。
「知的障がい者を主人公に、彼が一時的に知能を得ることで起こる波乱」という斬新で惹きつける設定は見事としか言いようがありませんし、たとえ思いついたとしても、まともに読めて辻褄の合う物語を形成するのも困難です。
この小説は主人公であるチャーリィ・ゴードンの知能の変化が分かるように地の文が工夫することで(段々と漢字が多くなる、句読点を使うようになる、表現が巧みになる、など)その困難を乗り越えており、それでいて小説としての読みやすさを損ねていません。
読後に振り返ってみれば、確かに、本当に知的障がい者の思考はこんな感じなのだろうか、科学的に確かめたのだろうかという疑念が頭をよぎります。
それでも、読んでいるあいだは「きっとこうなのだろう」と納得させられ、すらすらと読み進めてしまう。ダニエル・キイスの手腕と小尾さんの名訳が光ります。
個々の描写も巧みで、名場面が多くさすがに紹介しきれないのですが、
一番好きな場面は、かつてのチャーリィには「天才」に思えたニーマー教授とストラウス博士を、本当の「天才」となった彼が「凡人」だと断ずる場面。
そこで、二人の助手代わりの大学院生であるバードが「寛容とかいうものが未発達なんだよ」とチャーリィを諭し、「あの二人がいつ、自分たちが完璧な超人だと言ったかい? 彼らは凡人、きみは天才だ」と続けます。
ここでバードが黙りこむのですが、チャーリィは「続けてくれ」と先を促します。
「天才」になって以降のチャーリィが他者の理論に屈したり、あるいは他者の話をもっと聞きたいというそぶりを見せるのがこのシーンだけであることからも、ここでバードの言っていることがどれほどチャーリィの胸を衝いたかということが分かるというものです。
自分から(あるいはメディアが)「天才だ」などと言わなければ、私たちは相手を凡人として扱うことが普通なのであり、それは、お互いの欠点を認めて補い合い、支え合ったり、時には見て見ぬふりで自尊心を持たせ合ったりということを意味しています。
それを理解する青春の過程がチャーリーに欠けている一番のものであり、これがないからこそ、彼は友人や新しくできた恋人との軋轢を生んでしまうのです。
その証拠に、知能が向上した後のチャーリィの思考は賢いのですが、どこまでも自分本位で、私はこう思う、私はこうしたい、私がこう感じるのはなぜだろうか、というものばかりです。
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