アニメ映画 「千と千尋の神隠し」 監督: 宮崎駿 星5つ

千と千尋の神隠し
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1. 千と千尋の神隠し

言わずと知れた名作中の名作。アカデミー賞受賞作品で日本における歴代興行収入第1位。金曜ロードショーでの初回放映時視聴率は46.9%を記録し、まさに伝説的映画と呼ぶべき作品です。大衆人気はもちろん映画通からの評価も高いようで、普段は分裂しがちな一般人気と映画好きからの支持を両方得ることに成功した稀有な作品でもあります。

内容も文句のつけようがない素晴らしいもので、今後、この「千と千尋」を超える作品が日本映画から現れるのかと思わせられるほどでした。

2. あらすじ

主人公、荻野千尋は10歳。なんらかの事情で新しい街に引っ越すことになり、新居に向かう自動車に乗っていた。

しかし、運転する父が道を間違え、森の中にあるトンネルの前に千尋たちは着いてしまう。好奇心からトンネルの奥に行こうとする父と母。躊躇う千尋だったが、両親が行くというので仕方がなくついて行くことになる。

トンネルの向こう側には無人の飲食街が広がっており、店先に置いてある料理に惹かれた両親は「お代は後でいいか」と勝手に店の料理を食べ始めてしまう。千尋は「帰ろうよ」と言ってもきかない両親のもとを離れ、飲食街の奥にある大きな建物に向かって歩き出した。

そこで出会ったのはハクと名乗る少年。ハクは千尋が迷い込んだ人間であることを悟ると、「帰りなさい」とこの世界から出ることを促す。両親が食事を始めた店に急いで戻る千尋だったが、椅子に座って料理を食べていたのは2匹の豚だった。両親が豚に変わってしまったと思った千尋は狼狽する。そのうちに日が暮れ、奇怪な姿の八百万の神々がこの世界へと姿を現すのだった。果たして、千尋は無事脱出することができるのだろうか…….。

3. 感想

アートとエンターテイメント、あるいは真理性と娯楽性の両立というのは大変難しいもので、高尚なデザインや技術の粋を詰め込んだ映像表現であるほど却って素人には分かりづらく、それを楽しめないということが多々ありますし、社会や人間の本質を描いたり探求しようとすればするほど、それは断定的でなく曖昧で難解な作品になってしまい、娯楽作品に求められるある種の割り切りと痛快さからは離れます。過去作品を知り尽くしており、業界全体に一家言を持っていて、「メタ」や「社会風刺・高度な比喩表現」などを意識するオタク/マニア的な人々と、普段、あまり「作品」というものを鑑賞することのない人々のあいだで小説や漫画、映画への評価が分かれてしまう原因はかなりの部分がここにあるのでしょう。

しかし、「千と千尋の神隠し」はその二つを完全に両立しております。

どこの家庭にも存在しそうな女の子を主人公とし、両親が豚になるというある種のホラー的なはらはら感や、「姿を見られずに館の中を移動する」といった冒険ものの要素がテンポよく冒頭から投入され、飽きることなく見入ってしまいます。千尋が油屋で働くようになってからも、新人としてのつたない仕事ぶりには「これからちゃんとやっていけるのかな」と心配になりますし、千尋が世話を任される「汚い客」の汚さの描写にはぞっとあさせられますし、それを乗り越えて同僚たちの信頼を勝ち得ていく様子は王道のワクワク感があります。丹念に作りこまれたアニメーションにより、それらの展開が「動き」として表現されているのも動的な楽しさを提供してくれます。決して会話劇にせず、モノローグにも頼らず、映画表現で登場人物たちの心の動きを描き出す手腕の見事さはさすが宮崎駿だと言わざるを得ません。

一方で、料理を食い散らかす千尋の両親や、どこか風俗産業を想起させる油屋の風体とサービス(「千」という別名を与えられるのも共通する部分があります)、無限に金を生み出すカオナシと、それに群がる油屋の従業員たち。甘やかされ過ぎた坊の振る舞い。これだけ見せつけられれば、少なくとも大人には感じられるはずです。無限に増幅する人間の欲望について何かが言いたいのだと。カオナシが出す「金」を千尋が「いらない」と拒絶し、カオナシが狼狽しながら必死に「欲しがれ」というシーンなんかは露骨ですよね。「金を欲しがらない人物の存在が信じられない」という振る舞いにはむしろ大人の方がどきりしたのではないでしょうか。

また、人間の二面性や割り切れなさを上手く描写しているのも良いところです。湯婆婆と千尋の前では態度の違うハク、ハクと千尋の前ではやはり態度の違うリン、千尋と坊の前では態度の違う湯婆婆。湯婆婆は悪役でもありますが、店を荒らすカオナシに対して立ち向かっていくところなどは従業員を守ろうとする気概を感じますよね。千尋を馬鹿にしたり、半ば嫌がらせをするような同僚たちもそれぞれが必死に生きている瞬間が垣間見えるようになっていて、「死んでいる」キャラクターがいません。全ての登場人物が活き活きとしており、しかもそこには嘘っぽい空虚さがありません。あれほど人間とはかけ離れたキャラクターばかりなのに、誰を見ても「人間を描いているな」と思わせられますよね。見ていて映画好きでない人々が違和感を覚えない(いわゆる「アニメ」のキャラクターではない)という意味でエンタメですし、ヒューマンドラマ的な評価を高めているという意味で通向けの要素でもあります。

加えて、他のジブリアニメと同じく、この作品も映画好きの評論の中では様々な登場人物やシーンが何を暗喩しているかという議論が未だに盛んであります。行き過ぎるとこじつけになってしまう恐れがありますが、敢えて個人的に好きな考察を一つピックアップするならば、「カオナシはストーカーをモチーフにしている」ですね。少女をねっとりと見ている(千尋とハクが橋を渡るシーン)、少し優しくされると勘違いし(雨の日に中に入れてくれる)、モノを与えることで気を引こうとする(薬湯・金)、それを相手が受け取らないと、裏切られたと一方的に勘違いして暴れる。単にストーカーという枠にとらわれずとも、現実にわたしたちの生活を蝕む「嫌なやつ」の要素を上手く詰め込んでいます。

このように、多くの要素が見事に調和しながら編成されているのが本作の特徴であり、曖昧で幻想的な作画(列車に乗っている場面)だったり暗喩的な設定などで想像の余地を膨らませる内容になっておりますが、やはり最も重要な主題は千尋の成長なのではないでしょうか。婉曲にしか描かれていない他の要素と比べ、この点だけは常にはっきりと描写されています。車の中で見せていたなよなよとした態度、釜爺に挨拶もできない甘えた性格。そんな出発点だった千尋ですが、油屋での労働を通じて次第にたくましく成長します。オクサレ様の世話をするのに身体を張って湯を入れる場面での奮闘を経て、ハクを取り戻すために湯婆婆のもとへ行く段階ではアクションシーンと呼んでも過言ではないくらい逞しい動きを見せるのが印象的です。初期の倦怠感ある身体の動きとは全く違いますし、それを徐々に変化している様子として描いていく技法が見事です。最初と最後を見比べてみれば明らかに違うのに、途中の変化がなだらかなので連続的に見えるような、パラパラ漫画に似たような滑らかさで自然と心に入ってくるのが良いですね。背筋も伸び、すっかり自己主張をするようになるのも見事。誰かに「成長したねぇ」と言わせたり、特別な能力が身に着くという楽な方向には走らず、最も難しい「現実的な成長ぶり」の表現に挑戦して成功しています。

そして、この映画随一の名シーンはなんといったって千尋が数匹の豚の中から自分の両親を当てるシーン。「この中にはいない」の瞬間にどれほど痺れたことか。千尋が両親の不在を見抜けた理由として、「千尋は物事の本質が心の目で見抜けるようになった」や「髪飾りが効いている」「団子が効いている」が挙げられることが多いようですが、私は「千尋の名推理」説を推したいですね。作中、様々なキャラクターが自分の意志で姿を変えますが(湯婆婆のカラス、ハクの龍⇔人間)、「他者の姿を変えさせる」ことができたのは銭婆だけです(坊をネズミに)。つまり、湯婆婆には他者の姿を変える力などないのです。そうすれば、答えは簡単。人間である両親は豚になどなりません。冒頭の、両親の座っていた位置に千尋が帰ってくると豚が座っているシーンがミスリードになっていて、実は両親は平然と元の世界に帰っており、あの豚は両親ではないということです。湯婆婆は千尋の誤解を利用していたのです。他人の姿を変えられる銭婆と、変えられない湯婆婆。これは心に関しても同じで、湯婆婆は恐怖(とハクの体内に入れた他者を洗脳する生物)でしか人をコントロールできませんが、銭婆は温かさをもって他者を迎え入れることでカオナシさえ心から変えさせています。

そしてラストシーン。千尋が油屋の世界から脱出する場面。千尋が振り返ろうとする瞬間に髪飾りが光ったり、トンネルの色や形が冒頭のシーンと違っていたりと考察要素は山ほどありますが、私が最も感動したのは、千尋の歩き方や態度が元の「なよなよした子供」に戻ってしまっているところ。油屋での記憶や体験を千尋は忘れてしまうんですね。これがこの作品がかなりリアリティにこだわっているところなのだと思います。湯婆婆やカオナシといった「明らかな嘘」の陰に隠れてしまいがちですが、千と千尋の神隠しにはテーマに深く関わることながらよく考えてみれば現実的ではないと思える部分があります。それは、「千尋の成長速度」です。千尋が油屋で働いた期間はほんの僅かですので、現実というものを考えれば、短期間にあれほど精神的な成長を遂げるということはあまりないでしょう(スポーツ選手等の「特殊」な例は除く)。現実には、もっと辛酸を舐めなければならないはずです。あの素晴らしい成長は幻想世界ならではのボーナスであり、現実に帰ってきた千尋には努力相応の成長しか反映されておりません。ここまでやるか、というくらいの冷徹さを感じますね。

もちろん、こう言ってしまっては、「そこまで現実にしてしまってはフィクション作品である意味がない」と思われる方もおられるでしょう。その点については、あえてフィクション世界での「成長」を描き、それを消してしまうことで、「きみたちには『可能性』があるんだよ」というメッセージと、「それは相応の努力をしないと得られないんだよ」というメッセージを両立したのだと思います。週刊少年ジャンプのテーマは「努力」「友情」「勝利」である、という話は有名ですが、ある編集の話によると、このうち子供は「努力」が嫌いなので、これについてはあたかも「努力」したかのような達成感をゴロゴロしながら漫画を読むだけで得られるのが重要だそうです。この作品はそうなることを避けたかったのではないでしょうか。「まだ何も努力なんてしていないぞ」と言いたかったのではないでしょうか。現代の子供たちにとって、冒頭と最後に出てくる「なよなよした千尋」こそ共感の対象であるのだと思います。けれども、最後に出てくる千尋は、「幻想の世界で逞しさを見せつけた千尋」として視聴者の頭に残っています。いまの自分と、「なれるかもしれない自分」との対比を最後に突きつけ、これからあなたは(そして、10歳の千尋も)逞しくなっていけるんだぞ(努力すれば)、という感慨を持たせて終わらせたかったのではないでしょうか。

4. 結論

誰が見ても、どう見ても感動でき、語りたくなる映画、「千と千尋の神隠し」。ネットで調べて見ると私が観賞中に見落としていたことが多くありまして、特に、千尋が湯婆婆に名前を教えるとき「名前を間違えて書いている」という指摘には驚かされました。「本当の名前を教えてはいけない」とハクに言われたからだそうですが、どこまでもディテールに富んだ映画です。

評価としましては、「人生でこの映画を見逃すわけにはいかない」でしょう(というか、当時を知る人で見ていない人などいるのでしょうか?興行収入歴代1位、TV視聴率50%ですからね)。むしろ2001年より後に生まれてきた方々に忘れず観賞して頂きたいですね。

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