1. 日の名残り
一人称で書かれた小説の決定版とも言えるでしょう。
戦後すぐのイギリス。旅すがら、ある英国人執事が自らの人生を回顧していきます。彼の「意識」の中のイギリス、「理想」の中の記憶に読者は引き込まれ、やがて作者の技巧に気づいたときには大きな驚嘆を得ることができます。
ブッカー賞の名に恥じない作品です。
2. あらすじ
ダーリントン・ホールというお屋敷に勤める執事、スティーブンス。彼が長年仕えたダーリントン卿は世を去り、現在は新たに屋敷を買い取ったアメリカ人のファラディのもとで働いている。
ある日、ファラディの提案により、スティーブンスは休暇を取ってイギリス西部へ旅行へ行くことになった。 この休暇、旅を楽しむことも目的の一つだったが、スティーブンスにはもう一つ目的があった。人手不足に悩むダーリントン・ホールを救うため、かつての女中頭であるミス・ケントンに会いに行き、復帰を願い出るという目的である。
ミス・ケントンからの手紙を携えて旅に出るスティーブンス。途中いくつかの名所や村に立ち寄りながら彼はかつての記憶を辿る。1920~30年代。戦間期において、ダーリントン・ホールは国際外交の舞台であった。各地から要人が集い、屋敷の主であるダーリントン卿は対独融和派として熱心に活動していたのである。
そんな主の崇高な目的の達成に寄与するべく、常に品格ある執事であろうとしてきたスティーブンス。主の崇高な目的、品格ある執事。そんな言葉で飾りながら過去を振り返る彼が最後に思うこととは......。
3. 感想
読み進めていくうちに読者が驚くのは、この小説が持つ見事な「信頼できない語り手」構造でしょう。戦前のイギリスで仕えた執事が、立派な主人との思い出を語る。この導入だけで、高潔な執事と紳士な貴族との美しい物語だと誰もが思うはずです。実際、「そう思い込みたい」スティーブンスが語っていく形式をとっているため、読者はいとも簡単に騙されてしまいます。しかし、ダーリントン卿の外交姿勢や、今日の評価、あるいは、スティーブンスの語り口や、旅の途中の態度に不穏なものが漂い始めてきたとき、読者も同時に気づくのです。
ダーリントン卿はナチス=ドイツの協力者として人々に記憶されており、その名は恥とともにあるということを。
そしてまた、スティーブンスのかたくなすぎる態度があらゆる事態を悪くしてしまっていたということを。加えて、女中頭であったミス=ケントンとのロマンスが大いに美化されて語られていることにも気づくでしょう。そのスティーブンスの虚飾が明らかになる過程において、はっとしてしまう読者も多いのではないでしょうか。
人は自分の人生に言い訳を重ね、やたらに美化してしまいがちです。
最後の場面。
ミス・ケントンとの再会を果たし、スティーブンスが自分の人生を直視しなくてはならなくなった後にスティーブンスが見せた涙。それでもなお、彼は「思わず泣いてしまった」とは言いません。それこそが、彼にとって「品格」であるからです。あるいは、そういった「品格」に縋りつくことでしか、自分のプライドを保てないのです。
とはいえ、最後に彼が見せた態度の変化に、まさに夕陽の美しさ、日の名残りを感じることができます。
随所に現れる小説技術(ミス・ケントンが結婚することをスティーブンスに告げる場面の前後のハラハラとやきもきと切なさときたら!)はあまりにも見事であり、後悔と悲しみ、虚栄と誇り、ノスタルジーと未来への希望が絶妙なバランスで仕込まれています。
女中頭としての殻を破り、一度はスティーブンスにアプローチしたミス・ケントン。英国貴族としての殻を破り、英独融和に努めたダーリントン卿。二人の行いは、「女中頭」「英国貴族」という「役割」からは逸脱したものだったのかもしれませんし、そうでなくても、行動そのものとして愚かだったのかもしれません。けれども、ミス・ケントンの恋心も、ダーリントン卿が苦境に喘ぐドイツの人々を想う気持ちも、人間としての本当の気持ちでした。「自分の役割はこれ、だからこれを粛々と行うだけ」。そんな殻から抜け出し、ある種の「決まり」を破って行ったことこそ、自分の人間としての人生の発露であり、それこそやるべきことだった。結果はどうあれ、ミス・ケントンもダーリントン卿もそれをやりきって、人生を全うした。役割外に飛び出し、殻を破ること。スティーブンスは最後、それを侮蔑してきた自分を恥じ、それをしてこなかった人生を悔やむ。
そして、気づくのが遅すぎたとスティーブンスが気持ちを沈ませているところに、隣の男性がある言葉をかけてくれる。ここでタイトルを回収するのは見事です。
人生のどこかで必ず読むべき名著。オススメです。
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