他人にもそれぞれの葛藤があり、疲労や無力感、あるいは大きな自信喪失で自暴自棄になってしまうことがある。
そこにチャーリィの思考は及びません。自分の悩みや二面性は理解して欲しいというくせに、他人には一貫性を求める。そのあたりの幼稚さが上手く描けています。
この幼稚さは物語中でたびたび指摘されるのですが、チャーリィは知性の殻でそれを包むことで誤魔化します。
かつてのチャーリィも他者の感情を理解していたとは言い難いのですが、それでも、いつも他者に寄り添おうとしていた、だからこそ、パン屋でも働けていたし、このような実験の対象にも選ばれた。
その対照がチャーリィ自身には感じ取ることができず、周囲ばかりがその差に当惑する様はこの物語独自の良い描写で、傑出しています。
知性と他者への感情的理解がトレードオフであることが示唆される箇所はやや引っかかりましたが、それでも、他者への感情的理解を磨くことが人間が成長過程で得るべき最も重要な要素である、ということがよく表現されています。
しかしながら、「知的障がいを抱えているものの心優しい青年が手術によって高い知能を手に入れる」という設定から必然的に立ち現れるストーリー以上のひねりや起伏があったかといえば、初期配置に「知能を向上させる手術」という波紋を起こしたところからの予測可能な連鎖反応のみで終わってしまった印象もあるのは事実です。
淡々とした筆致で無理なく収まっているのですが、「とんでもなく突飛でわくわくする風呂敷を感動裡に収めてしまう」度合いという点においては他の古典や名作と呼ばれる作品に比べると弱いかなと感じました。
詰将棋をしていくような物語進行ばかりで、「そこがそこに繋がるのか」「それにはそういう意味があったのか」という箇所がほとんどないんですよね。最後の一文くらいだと思います。
また、女性関係はややご都合主義だと感じました。
知能を得たチャーリィは知的障がい者成人センターでチャーリィを教えていたキニアン先生と恋仲になるのですが、手近にいた知性のある美人がチャーリィに惚れてくれるというのはちょっと都合が良すぎるでしょう。
「知的障がいがあったころのチャーリィの誠実さ」など、理由は散りばめられているのですが、やや説得力に欠けて苦しいです。
また、中盤からチャーリィが住むアパートで出会うフェイという女性とチャーリィは身体の関係を結ぶのですが、このフェイという人物も男性にとってあまりにも都合の良いキャラクターに思われます。
さらに加えるならば、「チャーリィが『人並外れた』天才になっていく」というところまで必要だったのかと尋ねられればそれも微妙だと思います。
チャーリィが天才過ぎることで、チャーリィの葛藤が他者に理解されない天才としての葛藤になっており、一般人たる読者からすると感情移入の対象というよりは客観視する対象になってしまっているからです。
知的障がい者が「一般程度の知能を得る」でも十分に物語は成立したでしょうし、「急に一般人の知能で一般人の生活をすることになった元知的障がい者の葛藤」を存分に描く方が、ただ漫然と「一般人の生活」を送る私たちの感覚に意外な角度から光をあてられたに違いありません。
天才の葛藤は、それが観察対象として興味深いものであろうと、究極的には私たちと「関係ない」ことなのですから。
ただ、これらの要素を考慮しても本書の基礎的な面白さは揺るぎません。凡作を上回ることは確実であるものの、そこからの加点はない作品として、評価3点(平均以上の作品・佳作)が妥当でしょう。
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