宏樹もまたイケメンでスポーツ万能な男子ですが、梨紗にとって桐島が自分の地位を維持するためのアクセサリーであり、桐島にとって梨紗が大事な人ではなかったのと同様に、沙奈にとっても宏樹は自分自身のステータスシンボルでしかなく、宏樹もまた、自分自身が抱える葛藤を沙奈に吐露したりはしません。
部活にも入らず、自分自身に「値する」素敵な彼氏を携えて他者を見下しがちな梨紗や沙奈と対照的なのがかすみと実果の二人になります。
かすみと実果はバドミントン部に所属しており、どちらも部活動などに一生懸命打ち込むことに対して誇りを感じ、一方で、人間関係的なマウントの取り合いばかりの梨紗と沙奈をうっすらと嫌っているのですが、女子同士の複雑な関係を考慮してその感情は表に出さず、教室内トップカーストの一翼として日々を過ごしています。
だからこそ、桐島の喪失によって、梨紗&沙奈組とかすみ&実果組のあいだに潜んでいた確執が表面化するのです。
この点において、特に象徴的な役割を果たすのは実果になります。
桐島がバレー部から姿を消したことで、バレー部は新しいリベロのレギュラーを擁立せざるをえなくなります。
そこで選ばれたのが、桐島の控えとして常にベンチを温めていた小泉風助という生徒。
しかし、圧倒的実力を持っていた桐島との能力差は歴然で、試合をすれば風助のせいで負けるばかりとなり、チーム内の苛立ちは募るばかり。
風助自身は極めて自責的かつ努力家でありまして、桐島の穴を埋めようと懸命に努力するのですが、一生懸命になればなるほど能力差の大きさが際立つばかりで、味方の選手からでさえ罵倒される始末。
これまで桐島の控えであったことで良くも悪くも目立つことのなかった風助が突如表舞台に引きずれ出され、惨めな仕打ちに遭っている様子には目を覆いたくなります。
そんな風助のことを最も気にかけているのが実果になります。
一生懸命努力することの大切さ、一生懸命努力しても成しえない何かがあるという社会の無情、それでも藻搔く姿の美しさ。
実果はそんな価値観を感覚的に知っている人物として描かれていて、トップカーストの「イケてる」男子以外を見下すような言動ばかりをする梨紗&沙奈のことを内心では見下しているのです。
最終盤、これまでは本音を表に出すことができなかった実果が自分の殻を破って行動に出る場面には強いカタルシスを感じました。
そして、かすみにも隠し事があります。
かすみの隠し事とは、寺島竜汰と付き合っているということ。
梨紗の彼氏である桐島。沙奈の彼氏である宏樹、かすみの彼氏である竜汰、そして友弘という四人組が所謂「イケてる」男子四人組なのですが、かすみと竜汰の関係だけは周囲に対して秘匿されています。
その理由を、女子の人間関係の複雑さとかすみは言うのですが、推測するに、これは女子四人組でも「キャラ」の分担があるということなのでしょう。
彼氏をつくって遊ぶことに長けている梨紗&沙奈組と、部活動に一生懸命なかすみ&実果組。
両組は表面上仲良くしているように見えても。内心ではお互いのことを「彼氏もいない女たち」「地道な努力を一生懸命できない女たち」というように見下しあっていて、自分側に優越感を覚えている。
しかしだからこそ、誰も劣等感を覚えることなく対等な付き合いができているわけです。
お互いを見下しあっていることが却って友情を維持する微妙な均衡の基盤となっているわけですね。
本作は基本的に、所謂トップカーストの「陽キャ」たちが持つ地位の高さがいかに揺るぎやすいものかということを「桐島喪失事件」を通じて描いていくのですが、かっこいい彼氏を持って鼻高々だと思っていても、見下している女子の中には彼氏がいることを秘匿している人だっているかもよ、と問いかけるわけです。
さて、ここまでがトップカースト組の動きなわけですが、本作の主人公はそんなトップカースト組とは遠く離れた地位に押しやらている、いわば教室における底辺的な存在である前田涼也になります。
涼也がいかに底辺なのかという点については作中で散々演出されるのですが(体育の授業の場面なんか事実に生々しくてよかったです)、涼也は魂まで底辺の人間ではありません。
映画部に所属し、映画を愛し、監督として自分の好きなゾンビ映画の撮影に青春の情熱を捧げている人物なのです。
教室や部活における至高の存在であった桐島の喪失も、(もともと関係性が全くないので)涼也率いる映画部の活動には全く影響がありません。
様々な場面で馬鹿にされながらも彼らの撮影は着々と進み、しかしながら、涼也たちが屋上での撮影を敢行しているそのとき、屋上に桐島がいるという噂がトップカースト組やバレー部のあいだを駆け回り、これまで殆ど交流することのなかったトップカースト組・バレー部・映画部が一堂に会してしまうという事件が起きます。
この事件の中でひと悶着が起きたあと、宏樹が凉也に対して、
「将来は映画監督か?」
と問いかける始まる一連の場面が本作の山場です。
もちろん、この問いかけには、これだけ散々馬鹿にされているのに、なぜそんなに一生懸命映画を撮るのか、撮り続けることができるのか、という意味も込められています。なぜ君たちはそんなに必死になれるのかと。
これに対する涼也の回答が「その通り、映画監督になりたいんだ」ではないのが本作のポイントです。
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