【物語論】00年代の恋愛漫画「砂時計」から感じる現代の少女漫画から失われたリアリティについて

砂時計

2000年代前半に雑誌連載され、人気を博した「砂時計」という恋愛漫画があります。

植草杏(うえくさ あん)が小学生のときに東京から島根へと転向して同学年の北村大悟(きたむら だいご)と出会う場面から始まり、社会人になってから杏と大悟が結婚するまでの経緯が描かれる漫画です。

北村夫妻は結婚後島根県で暮らすことになり、杏は介護の現場で、大悟は小学校教員として働きます。

差別や偏見、倫理や道徳の問題に踏み込むような言動かもしれませんが、現実問題として、少女漫画(あるいは恋愛漫画)のヒロインが最終的に介護職員になるのはかなり珍しいのではないでしょうか。

大悟と結婚する以前、杏は東京でも働いていたのですが、そのときも派遣の事務職員として働いていました。

経済的に成功している、という類の職業ではありませんし、いわゆるヒロインが就きそうなキラキラした職業でもありません。

一方、大悟の小学校教員という職業はどうでしょうか。

それなりに社会的地位が認めらている職業ではありますが、決して高給ではありませんし、近年はブラックな労働環境について報道されることも多い職種です。

また、小学校教員になるには大学で教職課程を履修しなければならないのですが、作中、大悟が大学に進学すると発言すると、周囲がそれを嘲笑するという描写が見られます。

そのときに大悟が志望校として掲げた大学はS大学(=島根大学)であり、偏差値は50前後。

しかし、周囲の反応は、あの大悟がそんなにも「賢い大学」に行けるはずもない、というものです。

なんというか、とんでもない「リアリティ」を感じませんか。

多くの女性が普通に学生生活を送って就く職業として、派遣の事務職員や介護職はあまりにも妥当です。

大学進学という領域においても、ほとんどの人にとって「地元の国立大学」というのは普通に考えれば手が届かないほど神々しい領域なのです。

しかし、純粋な少女漫画・恋愛漫画でさらりとこのような生々しさを描いている漫画など近年ありますでしょうか。

さらに読み込んでいくと、本作には恋愛漫画として特異にも思える構造があることに辿り着きます。

この作品、恋愛関係についての描写が驚くほどあっさりとしているのです。

やたらにドキドキやトキメキみたいな感情を強調せず、男女が集まれば惹かれ合う者同士がいて、そんな二人が自然とくっつくというような、それくらい滑らかに恋愛の過程を描きます。

相手に恋人がいても好きだったらアプローチするとか、失恋もあまり深くは引きずらずに次の相手を見つけるし見つかるとか、そういった流れを自然な物語として見せるのです。

そして、本作において「起伏」になるのは主に家族関係だったり、学生生活や社会生活上の事情です。

杏の母親は第1巻で自殺しますし、父親は事業に失敗して一文なし。

そんな父親に誘われて、杏は高校進学時に島根から東京へと引っ越し、そこで大悟と遠距離恋愛になってしまうという展開が物語の浮き沈みとなっております。

そして、東京で杏と恋仲になる月島藤(つきしま ふじ)という人物も両親への反発心から家出経験があり、家出中に様々な経験を積んで成長するという物語が描かれます。

少女漫画・恋愛漫画ではあるのですが、登場人物たちにとって恋愛をするのは簡単かつ当たり前のことで、それ以外の事象の方が人生の困難として彼らを悩ませるのです。

所与の前提として存在する「恋愛」が持つ力をバネに彼らは困難を突破していきます。

「恋愛」こそ特別なものであるとして、なかなか踏み出せない心情や、恋愛にまつわる初心者的失敗、過剰なほどの感情の高ぶりを強調するようなことはなく、本作は平然とその逆を行くのです。

こういった、ある種の「リア充」漫画的な少女漫画・恋愛漫画が最近はなかなか存在しないなと思います。

本ブログでも記事を書いた「orange」がそれにあたるのでは、と思ったりもするのですが、これも2015年完結なので6年前の漫画です。

本作のほかにも、00年代といえば「NANA」や「恋空」が売れていたわけで、あの頃は確かに「リア充物語」の文脈が存在していたのでしょう。

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