映画監督になんかなれっこないけれど、映画を撮ることがとても楽しく、自分が映画を撮影しているということで、自分が好きな映画の世界との繋がりを感じられることが面白いのだと凉也は答えます。
スクールカーストというものは、一見重要そうに見えて、実は虚栄によって保たれているに過ぎない。
一番大事なことは、自分の世界を持っていて、熱中して没頭して努力できるということ。
それができる人間は、単にスクールカーストが上位の人間よりも、よほど中身が詰まった人間であるということ。
それをするのに、周囲から馬鹿にされてるか否かなんて関係ないということ、関係ないのだと振り切って没頭できる生活こそが素敵なことなのだということ。
本作からのそんなメッセージが凝縮された場面です。
涼也からの返答を聞いて、宏樹は思わず涙するのですが、ここで宏樹に纏わる様々なエピソードが効いてきます。
野球部の実力者でありながら幽霊部員の宏樹は、野球部の部長からしばしば戻ってきて欲しいと頼まれています。
プロ野球選手になんてなれるはずもないのに、ドラフト会議の日までは諦めないと嘯いて練習に励むほどの野球愛を持つ部長。
そんな部長の後姿と、涼也の言動が宏樹の中で重なります。
運動神経抜群で容姿も優れており、冗談のセンスもある。
そういった、何でもできる自分に欠けていること、それは、誰か何かを愛して、それに一生懸命になること。
自分の人生に対して感じていた虚無感の原因を、宏樹はついに、自分自身の中に発見するのです。
宏樹は携帯電話を取り出し、桐島に電話をかけるのですが、宏樹が桐島に何と言ったかは分からないまま物語は幕を閉じます。
(桐島の電話番号を知っているにもかかわらず、この場面に至るまで宏樹が桐島に電話をかけないのがまたいいですよね。自分が失踪した桐島に電話を掛けたって、語るべき言葉を自分自身が持っていないことを無意識に自覚しているわけですよ。そして、涼也との出会いを通じて、ようやく桐島に電話をかけられる自分になったわけです)
桐島がなぜ姿を晦ましたのか、そして、宏樹が桐島に何と言ったのか、この2点は作中で明示されないのですが、この最終場面の構成から、それらを推測することはできるでしょう。
何でもできる自分に欠けていること、それは、誰か何かを愛して、それに一生懸命になること。
まず、この気づきが重要だと自覚した瞬間に宏樹は桐島に電話をかけたのですから、宏樹はこの自覚によって、桐島が姿を消した理由に思い至ったと推測できます。
つまり、桐島はトップカーストの連中やバレー部の連中と付き合うのが嫌になったのでしょう。
彼女である紗奈は虚栄に溺れていて、友達である宏樹や竜汰、友弘といった人物たちは、勉強にも部活にもその他の活動にも精を出すことなく青春を浪費している。
バレー部のやつらだって底が浅い。
実力至上主義や勝利至上主義に溺れていて、努力の過程であったり、熱心であることそのものに宿る価値に気づいていない。
だから、やたら桐島を持ち上げて風助を馬鹿にする。
成績優秀で運動神経抜群、そして、人格すらも最上位にあったからこその孤独を桐島は感じていたのだと思います。
だから、宏樹が電話を通じて桐島にかけた言葉は、きっと謝罪の言葉であり、俺ようやく気付いたよ、というような言葉であり、俺も人生を一生懸命生きたいと思えるようになったよ、といった言葉であり、桐島と本心から通じ合える友達になりたいという言葉であり、桐島に戻ってきて欲しいという言葉であったに違いありません。
実際に学校生活を過ごしていると、日々、スクールカーストに汲々としなければなりませんし、汲々としていたなぁと当時を思い出す人も少なくないのではないでしょうか。
しかし、価値ある青春を過ごしたかどうかと問われたとき、その回答は、スクールカーストのどの位置にいたかということよりも、何かに熱心に取り組めたか否か、あるいは、何かに熱心に取り組むことを通じて形成される友情や愛情を感じられていたか否かという点に収束するのではないでしょうか。
後から振り返ってこそ感じるその価値観をレンズにして、群像劇方式で学校生活を覗き込んでみた、そんな作品だと言えるでしょう。
血沸き肉躍るような大感動であったり、驚愕の伏線回収があるわけではありませんが、構成の卓越さとテーマの生々しさの上手な組み合わせによって鑑賞中は画面から目が離せない映画になっております。
評価3点(全体のレベルが一定以上、なおかつ胸を揺さぶる要素が一つ以上ある佳作)に十分値する作品です。
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