小説 「スタンド・バイ・ミー」 スティーヴン・キング 星3つ

スタンド・バイ・ミー
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1. スタンド・バイ・ミー

映画としても人気を博したスティーヴン・キングの有名作品。小説としての原題は「THE BODY」、つまり「死体」なのですが、映画に倣い、日本で出版される小説では邦題として「スタンド・バイ・ミー」が使われています。

内容としては「ひと夏の冒険」もので、ベタといえばベタなのですが、そこはさすがのキングで、まさにこの王道を彼のものとして上手く扱っています。少年から脱皮していく時期の不安、幼性からの決別がノスタルジーを喚起する形で描かれており、やや冗長な部分など見られましたが、十分に佳作といえるでしょう。

2. あらすじ

舞台はメイン州のキャッスルロックという町。アメリカのどこにでもあるような田舎町には、どこにでもいるような仲良し男子小学生4人組がいた。名前は、ゴードン、クリス、テディ、バーン。

夏のある日、四人は行方不明になった少年の死体が森の中にあるという噂を聞く。死体を見つければ英雄になれる、地元のラジオに出演できるかもしれない。四人は軽い気持ちで計画を立て、森へと歩き出す。

一方、車で森を目指す別の一団もいた。クリスやバーンの兄を含む不良グループである。そもそも、四人が死体の存在を知ったのも、彼らの会話を盗み聞きしたからだったのだ。

しかし、そんなことは知らずに森への道を行く四人。町で噂の狂犬がいるゴミ廃棄場を通り抜け、列車が通る歩道のない鉄橋を命からがら渡りきる。非日常の中でそれぞれの個性が際立ち、友情は深まっていく……そのはずだった。

「ジュニア・ハイか」。

ゴードンとクリスが二人きりになったとき、クリスがそう語りかける。薄々感じていた、頭の良さの違い、家庭環境の違い。中学校に上がれば、コースも別れてしまい、四人は散り散りになる、かもしれない。

死体は見つかるのか、不良グループとの邂逅と戦いの結末は、そして、四人の関係はどうなってしまうのか。少年期の黄昏にふさわしい、夕陽の輝きと闇夜の漆黒を感じさせる、小さな冒険の記録。

3. 感想

いい作品ですね。少年期の独特の空気感がよく描けています。中学生や高校生になってしまえば、なんとなく優等生グループや中心的(リア充?)グループ、不良グループに分かれてしまう(最近はSNSの発達やサブカルの隆盛によりグループ形成のされ方が昔と異なると聞いていますが、各グループの名前や性質が変わっているのはともかく、グループ間の差は昔よりもさらに極端になっているそうですね)のに対し、小学生の頃はまだそれほどそういった差異に囚われずに仲良しグループが出来ていたと思います。

ゴードンたち四人組もまさにそんなグループで、主人公であるゴードンは頭が良く、クリスは賢いうえに度胸も腕っぷしもあるのですが、家庭環境のせいで教師や大人たちには出来損ないのレッテルを貼られている。バーンはアメリカによくいる太ったブルーカラーになりそうな予感がぷんぷんする人物で、テディはいまでいうところの発達障害に近い感じがあります。

それでも、小学生男子たちには「悪ふざけ」という共通の楽しみがあり、それが四人を結び付けているのが面白いところ。しかし、物語の途中で、こんな関係はいつまでも続かないんだとクリスがゴードンに言う場面がこの物語の最大の見せどころです。ゴードンは進学コースに行き、他の三人は職業訓練コースで不良になり、惨めな人生を送る。ゴードンはそれなら自分も、と言うのですが、クリスは逆に、バーンやテディのような人間がゴードンの人生の足を引っ張っていくことに早く気づけと促します。

もはや少年ではいられない、この友情は永遠ではない。そう気づいたときの気持ち(それは後から振り返って気づくものなのかもしれませんが)は名状しがたい切なさがあります。かつて友人だった、けれどもいまは自分の「クラスタ」に所属していない人々を思い浮かべ、なにか人生の哀愁を感じない人はいないでしょう。この小説では、そんな「哀愁」を、少年たちが初めて感じる瞬間が瑞々しく描かれています。

ただ、現代を生きていて一つ思うのが、この種の「哀愁」が普遍的ではないのかもしれないということです。かつては、いわゆる「地元の公立小・中学校」に様々な生徒がおりました。少し裕福な家庭の子供から、中産階級の子供、その中でも親がサラリーマンの子供もいれば、自営業の子供もいました。家庭環境に問題があったり、貧しい家庭で過ごしてきた子供だっていました。

しかし、社会の分断が進んでいると表現されるように、居住地域や私立・国立を含めた通う学校の性質ごとに、同じ性質の家庭から来た子供たちが凝集してしまう現象がかなり加速していると聞いています。貧しく、問題のある地域では公立小・中学校の教育はもはや崩壊している一方で、所得の高い人々の集まる地域の公立校や、有名な私立・国立校では進歩的な教育が行われ、高い文化資本を持った家庭の子供同士が交流しています。

言い換えれば、かつての小・中学校には、将来東大に行く子供から、中卒・高卒でブルーカラー労働者になっていく子供までが存在していましたが、それがどんどん分離していくわけです。有名私立・国立大学を卒業した者は同じく有名私立・国立大学を卒業した者と結婚し、そういった家庭(中産階級以上)が集住する街に住み、その地域の学校にそういった子供が集まります。そして、そうでない地域には、所謂、「地元に残った」人々だけが取り残され、その子供たちが、東大に行く子供が存在しなくなった学校に通うわけです。アメリカはなかなか酷い状況だと聞きますが、近刊やニュースを読む限り、日本もこの意味で「アメリカ化」してきているのでしょう。

もちろん、前述した「色々な生徒が集まる公立学校」自体が一過性だったのかもしれません。過去、学校は富裕層や地元の名士だけが通うものであり、その後、庶民に学校が浸透していく段階では、庶民の9割以上は地元の農民で多様性もなにもあったものであはありませんでした。ある意味で多様だった公立の小・中学校は、過渡期における偶然だったともいえるでしょう。

その偶然の時代、おそらく、1960年代後半から、21世紀初頭までの時代に学校生活を経験した多くの人にとって、この物語は共感できるものなのではないでしょうか。そして、いまとなっては、単にこの物語を自分自身の記憶と重ね合わせてノスタルジーを感じるだけではなく、この物語に出てくるような友情や「同級生」の在り方が失われつつあることそのものにノスタルジーを感じることもできるかもしれません。

その意味で、普遍性につき減点し、また、読んで頂ければわかりますが、やや意味のない冗長な場面も見られますので、5点から2点引いて星3つといたします。

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