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教養書 「経済政策」 松原隆一郎 星1つ

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経済政策
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1. 経済政策

放送大学の教科書第2弾。東大教授である松原隆一郎氏の単著です。

数式から逃げてしまったがために経済学の教科書としては理論的精緻さに欠け、内容としても著者の(半ば独りよがりな)思想が強く滲み出すぎている印象でした。

2. 目次

放送大学1期15回の授業に合わせ、
本書は以下の15章から成っています。

1. 「効率―公正」モデルから「不確実性―社会的規制」モデルヘ
2. 市場と共有資本
3. 市場と競争
4. 市場と参加
5. 社会保障
6. 公共財
7. 外部性
8. 企業と倫理
9. 財政政策
10. 金融政策
11. 危機における財政政策と金融政策
12. 国際経済政策
13. 市場と経済構造
14. 農業のゆくえ
15. 地方経済政策

第1章「効率―公正」モデルから「不確実性―社会的規制」モデルヘ

自由市場における取引を通じてパレート最適が達成されるという経済学の標準的な理論を「効率―公正」モデルと呼び、そこでは「不確実性」が考慮されていないとして著者はそのモデルを批判します。「不確実性」とは計算可能な「リスク」とは異なる、より強い衝撃が予測不可能な形で経済に打撃を与えることを総称した概念であり、こうした強い衝撃を受けても経済がしなやかに回復する程度のことを「レジリエンス」として著者は評価しています。やや先取りをしてしまいますと、著者の想定にあるのは東日本大震災であり、それに「衝撃を受けて」作者がこの立場を強調し始めてきたことが本著からは伝わってきます。そうです、衝撃的な事件が起こるとすぐ極端に走るタイプの著者なのです。この時点から不安が漂いますが、この不安はもろに的中してしまいます。本章の最後には、「不確実性―社会的規制」モデルの特徴として、経済的規制は緩めても社会的規制は緩めないことを挙げていますが、「どのような規制をどこまで緩めるのか」はこれまでも研究しつくされてきたことであり、著者が示す経済的規制と社会的規制の境界線は曖昧で、わざわざ著者が呼ぶところの「効率―公正」モデルを名前から変えてしまうようなものではありません。教育やインフラが経済学の中でも特別扱いされてきたのは当然のことです。

第2章 市場と共有資本

経済学では生産に必要な事物を生産要素と呼び、労働力や土地、機械などが代表例です。ここで著者は、ポラニーの論理を引きつつ、労働や土地、貨幣は他の生産要素とは決定的に異なるものだと述べます。それは、売買されることを目的に生まれてきた「商品」ではない点であり、人間(=労働力)や自然、文化がそれに当てはまると述べます。こうした特別な生産要素についての規制を上手くしなければ市場に大きな問題が起こると著者は主張し、その理論として有名な「共有地の悲劇」を挙げます。確かに、「共有地の悲劇」は重要な理論ですが、「共有地の悲劇」を防ぐための規制が他の規制とどのように異なるのかという解説はありませんし、むしろ、こういった境界線上にある、自由放任では上手くいかないとされている資本や財の研究こそ経済学研究の王道でありましょう。それを自らが全く異なるフレーミングから語っているかのように見せる著者の書きぶりはやや誤解を招く、傲慢な方法です。

第3章 市場と競争

代替材や独禁法、幼稚産業保護や金融規制についての概要が述べられています。(やや分かりにくく、客観性を書くものではありますが)それぞれについて至極当然のことをその内容として著者は記しています。問題はやはり、それがあたかも斬新な視点で、既存経済学への決定打となっているかのように書くことです。実態は逆で、財同士が実は完全に独立ではなかったり、自由市場では自然独占や合成の誤謬により上手くいかなくなってしまうところをどうマネジメントするかについての議論こそ既存経済学の主流研究対象なのです。そこを意識しつつ読めば、なぜ、こうも主観的に入門レベルのことを自慢げに書くのだろうと思ってしまいます。

第4章 市場と参加

労働市場についての議論で、特に労働者をつくりだす場としての教育について論じられています。企業が(潜在)能力の代替指標として学歴を重視することや、教育(によってもたらされる能力)が家庭の教育熱心さ・文化的豊かさといったいわゆる文化資本に依存していることなど、必ずしも労働者の生成過程が公平でないことを述べています。また、近年の労働市場の変化、つまり、非正規雇用の増大や、専門的業務のアウトソーシングなどについても言及されています。極めて一般的な事柄が書いてあるだけ他の章に比べればマシですが、新聞記事を並べたような断片的な書き方で、「教科書」の体裁としてはあまり好ましくないと思われます。

第5章 社会保障

所得の再配分について述べられている章です。ロールズを引きつつ再配分の政治哲学的正当性について語り、その後、民間保険におけるモラル・ハザードの問題、公的扶助における日本的特徴、少子高齢化下で公的保険や公的年金が抱える問題点が簡潔に示されます。まとめ方はほど良く、過不足ない章になっておりますが、やはり新聞記事以上の知識や理論が出てこない点は不満です。

第6章 公共財

前半部は経済学の定番かつ初歩的な公共財の解説になっています。競合性や排除性のない財は自由市場において(ゲーム理論的に・フリーライダー問題等により)供給不足になるので、適切な分量を政府が供給しなければならないというお話。そして、公共財の供給量をどのように決定するかについてリンダール均衡などが紹介され、公共財の供給成果を評価するための費用便益分析の手法がいくつか述べられます。問題は後半であり、東日本大震災の「教訓」を引き合いに出してレジリエンスの重要性を著者は訴えます。しかし、そこには「予期せぬ大災害から立ち直れるような備えが必要だ」以外の論理がなく、それを行うことによる均衡やパレート効率性といった経済学で必ず踏むべき理論は出現しません。また、その後になされる、公共投資が共通資本を破壊する話(ダムなど)においても数値や理論の裏付けがなく、あまり良い記述だとは言えません。

第7章 外部性

定番である外部性の話ですが、紙幅の問題からか、かなり変わった説明がなされます。正の外部性の例として紹介されるものはメリット財のみであり、教育やワクチン、研究成果の無料公開、伝統芸能の保護などが紹介されます。続いて外部不経済ですが、こちらも独特の論じ方です。著者は外部不経済を3種類に分類します。①被害を受ける側の受忍限度内であり、補償との交換で容認度が決定できるもの。②受忍しうるかの評価が時間の経過により変わるもの。③受忍の範囲外にあり、また、原因や責任の特定が困難なもの。②の例としては公害問題が引かれ、③の例としては原発問題が引かれます。そして、①の例においては伝統的な議論による「均衡点」を発見できるが、②の場合は当初の取引費用が高すぎて住民は被害の程度も因果関係も確認できず受忍せざるを得ないが、取引費用が下がった段階で均衡点が決まる(例として水俣病の原因がメチル水銀であることを立証する責任が住民側にあったが、社会的反響が起こり調査が始まると因果関係が特定されて補償が決まる)とされている。そして、③の場合には被害が甚大すぎて一つ二つの主体では補償できないためにこのような「交渉による均衡」の理論を持ち出すべきではないとしています。著者の言いたいことは分かるのですが、伝統的な議論が詳らかにされないまま持論が僅かな例示とともに出現してしまうのは好ましくないでしょう。また、この章では喫緊の外部不経済除去として電柱の地下化が挙げられているのですが、これは著者の個人的活動に関連しているから紹介されているに過ぎないことが明らかで辟易してしまいます。

第8章 企業と倫理

企業にどのようにして倫理を持たせるか、について論じられています。株式会社の有限責任性が生むモラルハザードや会計不正に対し、ストックオプションや会計不正に対する刑事罰で対抗しようとしていること。そして、原発事故が起きても公的資金を注入して電力会社を生き残らせ、国が補償を肩代わりしなければならないことを批判します。この問題でサブプライムローンが出てこないのはかなり問題でしょう。また、企業や経営者のインセンティブに関する議論が粗いうえに、あらゆる悪事を「倫理」でひとくくりにしてしまっているのも問題です。どのように企業の行動と社会的規制が「均衡」するのか。そこを示さなければ経済学の教科書とはいえないでしょう。

第9章 財政政策

他の章もそうなのですが、一つの章で広い範囲を扱いすぎです。この章ではわずか15ページ余りで「財政政策」全体が語られます。そのうえ、紙幅の半分以上を「日本財政の現状」に割いており、肝心の普遍的経済学理論はほとんど2~3行でなんとなく紹介されるだけです。ケインズ主義も、フィリップス曲線も、税の中立性や最小徴税費も、負の所得税もです。ほとんど高校の政経の教科書とレベルが変わりません。

第10章 金融政策

金融政策もわずか15ページで完結します。この薄さならばもう少し教科書を分冊しなければならないでしょう。また、この章も前章同様、戦後日本の金融政策の変遷を見ていく中で都度、つまみ食いをするように理論が紹介されるため、非常に断片的です。ただ、ざっくりとした日本金融史(戦後)としては優秀で、護送船団方式から金融ビッグバン、ゼロ金利、量的緩和や物価目標の時代までの流れが簡潔に記されています。最後に「ハイエクとケインズ」という節が用意され、そこが著者の持論置き場になってしまっているところが残念です。わずか数ページで論証できるはずのないことは諦め、もっと基礎的な解説に厚みを持たせるべきところを、散漫な記述の持論で埋めるのですからたまりません。

第11章 危機における財政政策と金融政策

通貨危機、金融危機、財政危機といった財政・金融政策が陥る危険な状況を紹介したうえで、それを防ぐための政策である「プルーデンス政策」について述べています。自己資本比率の規制や補完貸付制度、ペイオフなど、特に金融を中心に危機を防ぐために行われている主要な政策が紹介されます。そこまでは(あまりにも粗い説明であることを除けば)まだ読めるのですが、後半では東日本大震災の話が始まり、それをもって災害時の執られるべき政策が著者の持論に沿って展開されます。「災害」が全く一般化されていないうえ、東日本大震災や日本特有の現象ばかりが論じられるため、経済学の教科書としては良い記述だと言えないでしょう。

第12章 国際経済政策

本書の中では比較的平易で要点を衝いた記述が為されています。貿易については比較優位説について丁寧に解説がなされ、自由貿易の広がりについての歴史に触れ、最後に「ヘクシャー=オリーンの定理」まで述べられています。次の国際収支についての解説も標準的です。最後は金本位制からブレトンウッズ体制、変動相場制までの流れが駆け足に説明されます。各節の最後に著者の妙な主観が入ることがややネックですが、読める章です。

第13章 市場と経済構造

各章で散りばめられてきた著者の主張が集約されている章です。この章ではまず、バブル崩壊前後に起こった「日本型経済システム」の変容について述べられます。それまで長期取引慣行や年功序列賃金制、株式の持ち合い、メインバンク制とオーバーボローイングによって「不確実性」に備えていた日本経済が、構造改革や不良債権処理の結果として「不確実性」に対する備え方を変えていったのではないかという論です。銀行の貸し渋りが起こる心配があるので企業は利潤を溜めこみ、不況時の調整のために非正規雇用というバッファーを厚くする、といった格好です。それに対し、著者は規制を「経済的規制」と「社会的規制」に分け、前者は撤廃して市場の効率性を追求すべきであるが、後者は残すことで不確実性に恐れを為す必要がないようにするべきだと唱えます。しかし、本書全体に通じる疑問ですが、「経済的規制」と「社会的規制」をどう切り分けているかが不明瞭なうえ、「不確実性」の定義も曖昧で、かつ、「不確実性」だけが全ての悪さの原因であるかのような単純化がされているのは疑問です。定義をはっきりさせつつ、一つ一つの事項について均衡点を探る試みなしには評価のしようさえないでしょう。

第14章 農業のゆくえ

本章では農業に焦点を当て、グローバル化の中で関税引き下げや規制撤廃が求められるこの分野における経済政策のあり方が論じられます。著者は専ら完全な自由化には批判的で、関税は撤廃しても欧米諸国のように補助金で保護しつつ、食糧安全保障や有機栽培などによる食の多様性にも留意する規制を引き、なおかつヨーロッパの農業成熟国のように、設備の良さやITを駆使した農業経営、顧客との密な関係を重視した農産物販売を目指すべきだと論じます。著者の言うことはもっともですが、これは誰にでも口にできる理想論にすぎません。事実上、自国の輸出力強化になる補助金も関税の文脈の中で批判にさらされておりますし、食料安全保障や食の多様性を守るならば、農業成熟国のように花卉や果実、付加価値の高い野菜などにシフトして資源を集中することはできません。いわゆる「情」でつながり、「安心」を付加価値とするならば、原理的な意味で「効率的」な経営や市場は捨て去らなければならないでしょう。それらのトレードオフの中で苦しみながら最適点を模索している各国政府や研究者、農家の人々を馬鹿にしているとしか思えません。

第15章 地方経済政策

比較的よくまとまっている章で、地方自治体の財源や、中央―地方関係のざっくりとした歴史、地方の公共サービスの現状、そして人口の自然減/社会減の影響が分量に対して充実した密度で述べられています。最後の「地域再生のゆくえ」だけが事例紹介に終始して理論が存在しないという本書でよくある節になってしまっていますが、知識として蓄積する分にはいいでしょう。ただ、「経済学」の領域への結びつけが弱く、どちらかというと政治学・行政学的な内容になっていました。

3. 結論

かなり批判的に書いてしまいましたが、これが放送大学の教科書として使われているというのはかなり深刻な問題でしょう。多くの競合がある中で、これを経済学の(たとえ「経済政策」だとしても)教科書として読む理由はありません。

かなり不満足な読書でした。

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