民放とNHKで延べ12回放映されているアニメ映画で、すっかり夏の定番となった作品と言えるでしょう。筒井康隆さんの有名原作に、「デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム」で頭角を現していた細田守さんを監督として迎え、「新世紀エヴァンゲリオン」のキャラクターデザインを務めた貞本義行さんと、「もののけ姫」の美術監督だった山本二三さんが脇を固めるという豪華布陣。ミニシアターでの上映から異例のロングランを成し遂げた出世映画でもあります。

非常に凝った脚本が素晴らしく、演出も「静」と「動」のバランスがとれていて、これからも定番中の定番であり続けて欲しいと思わせられる映画になっております。



〇あらすじ

紺野真琴(こんの まこと)は高校2年生。男友達の間宮千昭(まみや ちあき)や津田巧介(つだ こうすけ)とキャッチボールやカラオケで放課後の時間を過ごす女子高生。ある日、ひょんなことから自身がタイムリープできることに気づく。

タイムリープの能力を得た真琴はテストを受けてからテストを受ける前の時間に戻って好成績を収めたり、カラオケで何時間も歌ったり、調理実習での失敗を身代わりに押し付けたりとやりたい放題。

しかし、そんな楽しい時間を過ごす真琴にも転機が訪れる。いつものように三人で遊んだ帰り道、千昭の漕ぐ自転車の後ろに乗っていた真琴は千昭に告白される。この日、巧介がボランティア部の後輩に告白されたという事件をきっかけにしたものだった。思いがけない事態に動揺した真琴は、告白される運命を変えようと何度もタイムリープを行うが、千昭は真琴に何度でも告白する。最後はなんとか告白を回避した真琴だったが、相談した叔母には「千昭くんが可哀想」と言われ、微妙な感情を抱く。

そして、告白回避以来、千昭を避け続ける真琴だったが、巧介へ告白して一度は断られた藤谷果穂の恋は積極的に応援していく。何度もタイムリープを使い、巧介と果歩をなんとか付き合わせようとする真琴。ようやく成功したかのように思われた矢先、タイムリープで運命を変えた結果がもたらす悲劇が二人を襲う.......。

繰り返す時間を一生懸命に駆け抜けた少女が経験する、忘れられない夏の感情。恋を知るために過ごした時間が真琴と千昭にもたらすものとは......。


〇感想

素直に観賞してもワクワクしたり切ない気持ちになるのに、「なぜこれほど感動できるのか」と考え出すと、その構成に驚かされるという、娯楽性と真理性を両立した名作です。

「過去に戻れる能力を得る」というのはフィクション独自の設定であり、物語としても王道ですが、この作品では特にそれが「現実の温かく切ない感情」を際立たせる点が出色です。

最初はコメディ重視で始まるこの作品で、読者が最初にはっとするシーンは千昭の告白でしょう。三人の高校生が織りなす楽しげな日常を安心して見ている序盤はそこで終わり、物語が徐々に緊迫していきます。このシーンでは、何度もタイムリープを繰り返す中でも、真琴が「千昭と一緒に河原の道を帰る」という選択肢を捨て去らないまま「千昭に告白される」という運命だけを変えようとするのが脚本の妙技になっているのだと思います。真琴にとっては「恋愛感情抜きの気楽に付き合える仲間」としての千昭と巧介を失いたくない、というのがこのときの気持ちなのです。勇気を振り絞って告白した千昭の感情を真剣に受け止めるだけの器量はまだありません。

ここでタイムリープという設定を、さっそく凝った形でこの作品は使っています。もし、真琴にタイムリープの能力がなければこの物語はどう展開していたでしょうか。真琴は千昭の告白をはぐらかし、二人は疎遠になるか、気まずい感情を引きずったまま微妙な関係を続け、そして真琴は後になって後悔するでしょう。告白を受けるにせよ断るにせよ、全力で人の気持ちに向き合わなかった、そんな燻ぶった青春を過ごしてしまったことに。

とはいえ、それは珍しいことではありません。むしろ、「あの時全力になれなった、真剣になれなかった後悔」や「浅はかな決断をしてしまった過去に思いを馳せるとき」という感情は誰の胸のうちにもあることでしょう。そんなとき、「もし~していれば」と、かつて行わなかった決断を想像して、それさえしていれば事態は良い方向に進んだものと考えてしまうものです。

まさにそれは、現実では過去に戻れないがために起こる現象です。それでは、過去に戻れたとして、本当に自分は正しい決断や行動をすることができるのでしょうか。

この物語の主人公、真琴も、「もし~していれば」や「~がいけなかった」という思いから繰り返し過去に戻りますが、誰かを救えても今度は他の誰かが傷ついてしまったり、より意に沿わない結果になるという悔しさを何度も味わいます。果穂を巧介と付き合わせるための作戦もそうですし、真琴の友人である早川友梨(はやかわ ゆり)があろうことか千昭と付き合ってしまったりもするのです。

しかも、これらの描写が序盤のコミカルな展開と対照的に描かれていることが構成の素晴らしさの一つです。最序盤、タイムリープの能力を自覚した真琴は万能感を味わいます。時間を繰り返せば、お小遣いは何度でも貰えるし、何時間だって遊べるし、何回でも二度寝できるし、大好物も望むだけ食べられる。テストだって問題が分かってから「戻れば」苦労しない。タイムリープで「あらゆること」が解決できるという錯覚を起こします。

しかし、中盤以降は人間同士の複雑な感情の交錯の中でもがき苦しむようになります。現実にはない「タイムリープ」という設定を活かして、「人間の感情だけは未熟な人間が何度試みようが思い通りになるようなものではない」という現実をより際立たせているという、まさに「フィクション甲斐のある」作品になっています。ただ人間の感情の複雑さを強調するだけならば実話で良いのです。むしろ、実話の方が「現実に起きている」という点で優位です。その感情は実際に人間を喜ばせたり悲しませたりしたのですから。フィクション(=嘘の物語)を人類が敢えて作る真の理由があるとすれば、それは嘘を交えないと表現できなかったり、上手く強調することが出来なかったり、スポットライトを当てづらい事柄があるからです。

そして、超絶技巧ともいえる構成は最後の瞬間までこの物語の緊張を持続させることに成功しています。何度もタイムリープを繰り返し、人間の真剣な気持ちの真っすぐさ、その尊さに気づいた真琴は「わたし、最低だ」と呟いて行動に出ます。これまでも「巧介くんと試しに付き合ってみて、気に入らなかったらなかったことにすればいい」という主旨の発言をする叔母に対して、「そんなことできないよ」と言うようになっていた真琴ですが、ついに、千昭の告白に対して自分が犯した最大の過ち、「真剣に向き合わない」を猛烈に後悔するのです。普通、この大切なことに気づくことができるのは、何度も過ちを犯した後です。現実世界では、(学生時代という意味での)青春が過ぎ去った後ということも少なくありません。真琴もそうなるはずだったのでしょう。しかし、タイムリープで時間を繰り返すことにより、経過時間としてはたった3~4日の間に気づくことができたのです。ここでまず、若人が大切なことに気づく瞬間というカタルシスを私たちは体感することができます。

ただ、私たちは同時に理解します。真琴が気づいた瞬間にはもう、千昭との別れは決定的になっているということを。タイムリープがなければ大切なことに気づくことができず千昭の告白をはぐらかしたままだった真琴。偶然にもタイムリープの存在により大切なことに気づきますが、同時に、そのタイムリープの使用が千昭との別れを決定づける。主人公が「恋」を知ることと、「恋」の相手との別れが表裏一体になっているという(まさに)劇的な構成は見事です。「未来で待ってる」「すぐ行く、走って行く」。二人が本当に「特別な」関係になったからこその特別な告白と、人生という道に対して前をまっすぐ向くことができるようになった主人公の応答が放つ輝きには感涙を禁じ得ません。

世界を救うわけでも、両親を結婚させて自分が生き残るためでもない、それでいてドタバタコメディでもない。ただ人生に対する情熱を表現するためだけに時間跳躍を使うという発想は、使い古された題材をもう一度新しくする斬新さがあったのだと思います。

そうした素晴らしい構成に加え、演出も傑出したものがあります。やたらめったら派手にせず、寒い掛け合いやギャグを挟んだりもしません。主人公たちとは全く関係のない生徒たちや、住民たちの様子まで活き活きと描くことで、あくまで「学校」や「街」の中のちっぽけな存在としての主人公たちを際立たせ、この「小さな物語」が小さいからこそ現実の私たちに寄り添う様が強調されています。主人公たちの「特別ではなさ」が「あり得たかもしれない物語」としての本作品のストーリーや、誰もが「思い出」を感じることができるノスタルジーを巧妙に浮かび上がらせます。フィクション作品であるのに、明らかに嘘であるのに、「自分」と「登場人物」との心理的境界線を曖昧にさせ、思わず感情移入させる演出になっております。時おり挟まる、BGM+動きと物音だけ(台詞なし)のパートやモノローグがメリハリをつけていて、非常に狭い世界で動いている物語にも関わらずテンポが一本調子になっていません。敢えて同じような場面を繰り返す箇所(自転車で坂を下るシーンなど)以外は同じようなことをしていても別アングルからのカットにしていたりと、この物語で重要な「繰り返しの効果」を際立たせる細かい気配りも光ります。

更には、キャラクターに二面性を持たせたり、変化を表現する手法にも魅力があります。千昭はちゃらい不良のように描かれるのですが、終盤には文化や知性を重んじる人間であることがその言動から視聴者に伝えられ、「この時代を精一杯楽しむための方法」としての千昭の学校での「キャラクター」だったことが暗黙裡に表明されるのも面白いですし、真琴が友梨に千昭が好きなことを宣言するシーンなんかも卓越したものがあります。都合の良いことしか受け入れられなかった真琴(悪い成績や調理実習での失敗に対して「これは例外」、タイムリープ能力を自覚すれば嫌いな夕飯を回避、千昭の告白にはまともに向き合わない)が、千昭のことが好きな友人に対して自分も千昭が好きであることを宣言する。物事や友人に真剣に向き合うことの意味を見出した者の態度ですよね。あまり言及されることがありませんが、千昭が最後のタイムリープを使った理由を真琴に問い詰められている際に、巧介と果歩について、「あいつら一度死んでるんだぜ」と言ったのもなかなかどきりとさせられます。千昭でさえ、自分が未来に帰れなくなることが惜しくなり、一度は親友を見捨てたのです。これほどさりげないシーンでも人間の弱さを描き出すなど、あまりにも隙のない構成は圧巻としか言いようがありません。

このように良い点だらけの本作ですが、星を一つ減じる致命的な欠点もあると考えています。それはもちろん、SF設定上の矛盾などではありません(最後の展開はよく考えるとSF面で矛盾していますが、本作においてそこは「奇跡」でも良いのです)。問題は、真琴、千昭、巧介の三人があまりにも普通の高校生ではないという点です。まず、女子一人男子二人の仲良しグループはそうそうないですし、放課後にキャッチボールなんてしないでしょう。しかも、巧介は医学部志望でボランティア部。とても現実的ではありません。千昭のような、「不良に見えるけど、正義感があって......」というのも(2006年当時で既に)絶滅危惧種でしょう。存在したとしても、冷静に考えれば真琴たちは「すごく変わり者グループ」であって、多くの人たちがノスタルジーや共感を覚えるのには難しい設定になってしまっています。その感情移入こそが本作の感動を支えている点であるのに、そもそもの設定がそれを難しくしていることが残念です(それでも上述した点が十分すぎるほどその欠点をカバーするのですが)。また、学校はその豪華さから私立の金持ち校であることが推察されますが、生徒間に偏差値や生活態度の差がありすぎです。馴染みのない学校風景と馴染みのない生徒共存もまた共感のためのリアリティを削いでいおります。しかし、これらの設定がこの物語の出発点、根幹を為してしまっており、この欠点が物語全体の良い点と分かちがたく結びついているということも本作の難じられるべき側面でしょう。

ただ、最後の段落で論じた点以外は完璧に近い作品。細田守監督は「サマーウォーズ」や「バケモノの子」などの作品も手がけており、個人的にはこの「時をかける少女」以外は好まないどころかむしろ嫌いなのですが、ただ、この「時かけ」だけは誰もに絶対勧められる作品です。いま少年少女である、あるいは、かつて少年少女だったならば、是非、観賞してみてください。