アニメ「SHIROBKAO」の感想第4弾。今回は本作品の(おそらく)メインテーマである「夢」について所感を述べたいと思います。といっても、夢については比較的わかりやすく表現しているのがこの作品(5人で一緒にアニメを作る・アニメに関わり続けていく)。特徴的なのは、夢を阻むものとして出てくる事例、そして、アニメという分野の中でもどのようなジャンルに夢を託そうとしているのか、そういった点だと思います。

長くなってしまいましたが、これ(その④)が最終回ですので、お付き合いいただければと思います。その①~その③はこちらになります→その①その②その③



〇あらすじ(第19話)

外注したレイアウトは最低基準のクオリティも満たせず、そのことを指摘すれば外注先は逆切れして仕事を放棄する始末。ようやく仕事を承諾してくれたと思ったベテランの背景描きは突如行方をくらまし、新人や太郎といった他の制作進行もデスクである宮森あおいに次々に困難な判断を求めてくる。手詰まりの予感に、「万策尽きた」と言いかける宮森。その時、先輩制作進行である矢野エリカが武蔵野アニメーションに帰ってくる。急病で倒れた父親に付き添っていた彼女だったが、父親が持ち直したのを機に職場へと帰ってきたのだった。

矢野エリカの助力もあり、なんとか光明を見出した宮森。ほっと息をつく宮森を、武蔵野アニメーション社長の丸川がある場所へと誘う。そこは、武蔵野アニメーションの前身となった旧武蔵野動画が入っていた建物。いまや廃墟になった場所であるが、かつての仕事道具がそのままになっており、どこか昔の仕事風景を思い出させるものだった。そして、丸川と共に仕事場を見て回る宮森が発見したのが、「山はりねずみアンデスチャッキー」のセル画。宮森がアニメ―ション業界を志したきっかけとなったこの作品の制作過程には秘められたドラマがあって......。


〇感想

このSHIROBAKOというアニメ、第1話の冒頭が「アニメーション同好会の5人で再びアニメをつくる」ことを誓う場面から始まり、最終話にアニメ制作に対する自分自身の関わり方を宮森が見出すというように、「夢」や「目標」が物語を通底する一つの大きなテーマになっております。

もちろん、夢や目標をテーマに掲げる作品は夥しい数がありまして、それをテーマにしていることだけをもってこのSHIROBAKOを称賛するわけではありません。ただ、夢とは程遠い「職場」や「働くこと」の普遍的な現実を描いていること、そのうえで、アニメ制作の魅力を、やはり普遍的な視線から描いていること、この2点においてSHIROBAKOは他と一線を画す卓越したアニメだと考えています。

まず、「働くこと」の現実ですが、その①において若手アニメーターである安原絵麻の貧困描写の入れ方に言及したように、この作品は業界全体が持つ苦しさ、あるいは、一般的な「職場」、「働くこと」に付きまとう「夢」とはいえない側面をさらりと描きます。

例えば、宮森あおいの姉、宮森かおりが東京へやって来るエピソード。地元の信用金庫に一般職として就職したという設定の彼女ですが、「お金があって遊びまわれる」という描写がなされます。お金持ちの子弟でもなく、有名大企業の社員でもなく、田舎の信金の一般職にその役割を負わせる設定。どこまでも現実を描写していながら、まさに、これまでのあらゆるアニメで行われてこなかった斬新な設定なのではないでしょうか。アニメ業界という超低賃金で過酷な労働環境にある主要登場人物たちにとって、お金持ちの子弟や有名大企業の社員が出てきてしまっては、別の世界過ぎて却ってジョークになってしまうのです。田舎の信金の一般職は、超高給ではないですが、十分に暮らしていけるだけの安定した稼ぎがあります。貯金するかボーナスを使えば東京に来てある程度自由に観光を楽しむことができます。これこそ、宮森あおいや安原絵麻の視点から見た、現実的に考慮可能な「お金を一杯使って楽しむ」なのです。田舎の信金の一般職の給与となれば、日本全体の中央値よりも低いか、精々中央値程度でしょう。それが、武蔵野アニメーションの人々にとって「見上げる対象」として絶妙な待遇であると描写すること。現実離れした金持ちや、ステレオタイプな中産階級を出すような思考放棄に陥らず、現実を精緻に反映しようとする生々しさが胸に迫るわけです。また、元アニメーション同好会員の5人がアニメの道を志さずに「普通」に就職していたら、と考えると、やはり信金の一般職あたりが適度な収まりどころであることは想像に難くありません。主人公格の5人にとって「あったかもしれない人生」になっているわけです。

そして、こうした中央値未満~中央値あたりでの所得や仕事の待遇における微妙な緊張感は、まさに現代日本のマス層(特に若年層においては)をよく代表しているのではないでしょうか。偏差値的にはほどほどの高校に進学し、それぞれの趣向や家庭の財政力に合わせて高卒就職/専門学校/短大/四大(高偏差値でない)に進学。給与も福利厚生も安定性もイマイチな職にありつく。ただ、その「給与も待遇も安定性もイマイチ」の中でも、信金のように「給与・福利厚生・安定性」で相対的にマシだが夢のない職業と、アニメーション関係のように夢はあるがそれらは絶望的という職業までグラデーションがあるわけです。そういった意味で、宮森かおりの存在は「夢を追わなかった自分が就けた少しマシな職業」を代表しているわけで、それこそ宮森あおいにとって、「これで『夢』がなかったら私には何もない」と思わせるのに効果的な演出になっています。そして、況やこのあたりの所得層に収まる全ての若者にも生々しく感じてもらえる描写になっているのではないでしょうか。

また、「夢」に関わる事象として、転職や独立の多さがこのSHIROBAKOの特徴でしょう。これはアニメーション業界の特徴なのかもしれませんが、それでも、別の夢を追いかけて辞める本田さん(本田さんにとってアニメは夢ではない)や、より大きな会社に引き抜かれていく落合さん(夢は武蔵野アニメーションでは叶えられない)、夢を失い会社を転々とした挙句、武蔵野アニメーションのに来る平岡(そんな人を雇わなければならないのが武蔵野アニメーション)、クリエイターを保護できるように独立して自分の会社を立ち上げた磯川(いまの業界はクリエイターを使い潰している)。このような人々の存在や言動が新人・宮森あおいに降りかかるわけです。「夢」を阻むものは決してドラマティックな大問題ではなく、業界や職場にはびこる中小の摩擦であり、泡沫企業の倦怠感が出るような職場環境であるわけです。これらをさらりと描きつつも、ロロとミムジーという道具を通じて宮森あおいの葛藤に上手く入れ込んでいるところの技巧には驚かされます。奇妙なアニメ文脈や大げさな表現を用いず、普遍的で、誰もが悩んでいる事象を取り上げる。ここに、アニメをニッチ産業にせず、多くの人が楽しめるユニバーサルなエンターテイメントにしていくヒントがあるのだと思います。矢野エリカの父子家庭設定や、父親の病気による休職などもそうでしょう。一つとしてそういった要素が入っていないアニメはまさに単なる虚妄でしょうが、そこを大々的にフォーカスし、現実にはあり得ないほど煽り立てるのも虚妄です。それらを現実的に淡々と描いていることが、視聴者に「これは自分の物語だ」と思わせたり、そうでなくても、登場人物たちを心から応援する気持ちにさせるのではないでしょうか。

その①~③でも所々で強調しておりますが、この「過剰なほどに煽り立てない」というのがこの作品のいいところで、重要な要素がたくさん詰まっているのに、見ているときはすらすらとメインストーリーが頭に入ってくるようになっている構造が素晴らしいんですよね。新人声優の鈴木京子が力んで本来の力が出せていないときに、宮森が励まそうとして失敗するんですけど。ベテランの音響監督は上手くほぐす。そこで宮森や周囲の人物に「すごーい」のような素っ頓狂な声をあげさせず、アニメ制作現場の日常として淡々と流す。坂木しずかが自分よりも若くしてテレビ出演している女子高生声優にテレビ越しに毒づくときも、ベッドの上で手足をバタバタさせたり、大声を上げさせたりしない。「なら代われよ」をぼそぼそと何度も言わせる。この表現が、まさに大げさな演技をするよりも生身で生きる「私たち」に近くてぐっとくるわけです。極めつけは、最終話で監督に褒められた後輩アニメーター久乃木愛(くぬぎ あい)に対する安原絵麻の態度。難しいとされていた動物のシーンをさらっと描いて監督に褒められた久乃木を、動物に苦しんでいた安原絵麻は嫉妬や怨嗟なくさらりと褒める。「彼女も先輩らしくなった」とは誰も言いません。ただ何気ないシーンとしてこれを見せます。そうです、先輩らしく振舞えても、小学生や中学生でもない限り現実には誰一人褒めてなどくれません。そうなっていくのが「当り前」とされているからです。先輩らしくなることはとても苦しいのに、おくびにも出せない。それを力強く成し遂げた安原絵麻をちらりと映す。これほど粋なことがありますでしょうか。社会人として「夢」に向かって進んでいくには、ただ自分自身の技能を向上させるだけでなく、他人との関わりの中で他人を引き上げる力を持たなければならない。若い力任せの「夢追い」に立ちはだかるものと、そこから進歩していく様が生き生きと描かれているのです。

そして最後に、ここはかなり対立点のあるところかとは思いますが、宮森あおいの好きなアニメが「山はりねずみアンデスチャッキー」である、という点も個人的には非常に気に入っています。近年の深夜アニメではなく、玩具宣伝や原作漫画宣伝のための朝・夕方アニメでもない。勇気や優しさなどの普遍的な価値を伝えようとする童話を原作とし(オリジナルであってもその雰囲気を醸し出し)、老若男女が楽しむことができ、大人になっても印象に残っているようなアニメ(ひと昔前のアニメ特集番組ではフランダースの犬の最終回や「クララが立った」が大人向けのノスタルジー場面としてしばしばピックアップされていましたよね)。かつての世界名作劇場が達成しようとしていた理想を、主人公が理想とするアニメとして設定することには大きな意味があると思います。たった一つ、この物語の主人公が掲げる「こんなアニメをつくりたい」に、様々な候補からわざわざ流行におもねらないものを持ってくる、それはリスキーな決断なのですから。この設定が何らかの偶然や思い付きではなく、計算や想いが込められているはずと私個人が強く思ったのは、まず宮森あおいが「アヴァ(エヴァンゲリオンがモチーフ)のTVシリーズを見ていない」と菅野監督(庵野監督がモデル)の前で言い放つところです。いわゆる「サブカル」出身ではなく、「世界名作劇場」出身の人物として、こまっしゃくれた考察や解釈を必要とする作品ではなく、誰もが見て楽しめるのに、深いメッセージもある作品を愛好し理想とする人物として、この宮森あおいが主人公になっているのです。

この、アニメがもっと多くの人に楽しんでもらえる作品になって欲しい、決して「アニメ文脈」の中だけに埋もれないで欲しいという思いは、このSHIROBAKOの随所に現れていると感じます。杉江さんは「世界中の子供たちが笑顔になって欲しい」という気持ちでアニメを書いていると繰り返し述べますし、大倉さんが「山はりねずみアンデスチャッキー」のために描いた背景は「旭川で大吹雪に遭って苦しかった時」をイメージしたもの。現実に見た不思議な色彩や感じた苦しみを作品に反映させようとしています。そのために、「アニメ的背景」の撤回が決まるのです。「アニメだけを見てアニメ業界に入る人が多くなった」「ラノベだけを読んでラノベを書く人が多くなった」という言説を見かけたりもしますが、確かに、アニメから学んでアニメを作るのでは、業界全体のクオリティは上がらず、不毛なメタの張り合いになってしまうのでしょう。学術研究やスポーツ、自然の美醜や他のエンターテイメント/アートから何かを取り入れ、より普遍的なものにアニメを近づけていくことこそ、アニメの発展に資するのではないでしょうか。

いささか感情的なまでに褒めちぎった本作ですが、唯一、不満を述べるとすれば、主人公5人の「彼氏いない設定(あるいはいても出さない設定)」でしょう。女子校といえど普通の高校生活を過ごし、普通に専門学校/短大/四大/職場に通っていて、恋愛関係のことを一切出さないのは不自然です。彼氏がいないとしても、そのことをどう受け止めているのか(良し悪しはともかく、世間の恋人/結婚プレッシャーな雰囲気は現実に存在します)も含めて生き方が出るというものでしょう。磯川久光に冗談を言わせてみたり、武蔵野アニメーションの脇役たちに言わせてみたり(クリスマスの前に決めてきちゃいなよ、中学生の息子がアニメ業界に憧れてて......)としているあたり、実は制作側もやってみたかったが深夜アニメのタブーには逆らえず、仕方なくささやかな抵抗として脇役を使っているのかもしれないですね。

とはいえ、あまりに多くの魅力に溢れたこの作品。文句なしに星5つです。