タイトルだけならきっと知名度100%なのではないでしょうか。数学者ルイス・キャロルによって記された児童書で、1865年刊行ながら今日まで全世界全世代で幅広く愛されている作品。「アリスの世界観をモチーフにした」が枕詞のエンターテイメント作品が製作されない年はないくらいに、古典として確固たる地位を確立しています。

そんなポップなイメージとは対照的に、英語独特の表現や時代背景を反映した冗談が多いためにやや難解になってしまっているのが日本語翻訳版です。河合祥一郎氏の名訳をもってしても物語を十分に楽しめるとはいえないでしょう。ただ、「アリスの何が斬新だったか」を意識しながら読めば、特に創作に携わる人々からの人気が高いのも頷けます。



〇あらすじ

主人公は小さな女の子のアリス。ある日、難しい本を読んでいるお姉さんと一緒に土手に座って暇を持て余していたとき、チョッキを着た白ウサギが目の前の野原を横切っていくのを目撃する。

言葉を発しながら通り過ぎていく白ウサギにアリスは興味津々。生垣の向こうの穴に飛び込んでいった白ウサギの後を追い、アリスも穴に落ちていく。

アリスが恐ろしいほど長い時間をかけて落ち着いた先は扉がたくさんある広間。小さな鍵は発見できたものの、それに合いそうな扉はない。もう一度全ての扉を確かめようとしたとき、足元に小さなカーテンを発見するアリス。そっと覗いてみると、そこには鍵に合いそうな小さな扉があった。扉を開けた先に広がっていたのは花の咲く素敵なお庭。けれども、身体が大きすぎて入れない。

失望して再び広間を散策するアリス。そこでアリスが見つけたのは、中身の入った小さな瓶。飲もうかどうかと逡巡するアリスだが......。

不思議なこと「だけ」が起こる、そんな世界に迷い込んだ、一人の少女の小さな冒険。


〇感想

不思議なこと「だけ」、というのがキーワードになるかと思います。とにかく冗談のオンパレード。一見無意味に見えるような言葉遊びが乱発されます。河合訳では原文での韻なども日本語で再現するよう試みられており、おそらく英語話者が読めばここは笑えるんだろうなぁと思える箇所がいくつもあるのですが、さすがに日本語になっては雰囲気以上のものを掴み取ることは難しく、真顔で読み進めてしまいます。展開も突飛なものばかりで、とても普通の思考ではついていけませんし、かといってどう「ひねり」が効いているのかも分かりづらく、有名だからと言ってこの小説が最初の読書体験(あるいは最初の外国文学体験)になってしまっては不幸だなと思えるくらいです。夏の100冊等に入っていないのもなるほどと頷けます。

ただ、訳者あとがきを読んで知ったのですが、作品中でアリスたちがでたらめに歌う曲は全てイギリスの童謡であるらしく、確かに、現代日本でも小さな子供はよく身近な歌を替え歌にしたりしていますし、そういった替え歌で笑いを取りにいく動画やお笑い芸人も子供たちのあいだでは流行します。

突飛で無茶苦茶な展開というのもそうで、バラエティ番組等でよく見られる芸能人たちへの(演出としての)理不尽な仕打ち、リアクションに大うけするのはやはり子供たちです。一発ネタなんかもその傾向がありますね。

そういった事実を踏まえつつ本書を振り返ると、永遠の輝きを放つ児童書の金字塔として納得できるところがあります。今日の日本でも、道徳めいた、教訓話のような絵本などがある一方で、おもしろおかしく(時に下品なまでの表現で)子供たちを笑わせている児童書も数多くあります。

この「不思議の国のアリス」という作品は、そういった系統の、「子供ウケする馬鹿話」、「子供だからこそ笑える突飛で単純な笑い」の古典なのです。

それがなぜ素晴らしいことなのか、「不思議の国のアリス」に詳しい方ならご存知かとは思いますが、当時のイギリスでは子供に聞かせる話のほとんどがお堅い教訓話であり、世の中も王権が幅を利かせる酷く堅苦しい雰囲気の中にありました。その中で、あえて教訓めいた童謡を小気味よい替え歌にして歌い、二言目には「この者の首を斬れ」と喚く女王を登場させて馬鹿にし、「めでたし算」や「掻き肩(書き方)」などの言いまわしで学校教育を茶化す。なにより、どんな無意味なことからでも教訓を見つけ出そうとする滑稽な公爵夫人というキャラクターがこの手法を最も象徴しております。このような語り口そのものが当時は斬新であり、時代の流行に乗ったわけです。そして、アリスが広く読まれることにより、この種の風刺・パロディの面白さと、不思議を突き詰め、理屈の一切通らない世界観に却って夢中になるという人間の習性が広く認知され、数多くの模倣作・オマージュ作が生まれることになるのです。

そんな「不思議の国のアリス」という物語に通底する要素として、私が一番面白く思ったのは、アリスが真面目な話をしようとすると登場人物たちは途端に不機嫌になり、アリスのことをあえて無視したり、強引なまでのやり方で話題を変えたりしようとすることです。現実世界では逆ですよね。真面目な場面でふざけたことを言うと、返ってくる反応はこの類のものです。けれども、「真面目」と「おふざけ」の境界線など曖昧で、なにか漫然とした「空気」のようなものがそれをつくり出しているだけです。世の中をがらっと変えるようなクリエイティブなアイデアも、雑務を効率よくこなす方法も、「真面目」と「おふざけ」の、その両方から生まれうる、そんなことをルイス・キャロルも考えていたのではとつい想像してしまいます。

というのも、このルイス・キャロルという人物は数学者であり、数学と言えば抽象と概念の学問です。ゼロ(なにもない)を定義することから始まり、「2乗すると2になる数」が欲しくなったら「√2」をつくり出し、しかもそれにマイナスまでつけたりする。実物が先にあるのではなく、概念が先にあってそれに現実世界における便宜上の形を与える。逆に、概念をしっかり定義できれば何でもつくり出せる。そのような特性を持った学問を背景とした表現が「不思議の国のアリス」には多々見られます。例えば、チェシャ―猫。いつもニヤニヤ笑っている猫なのですが、突然に姿を消したり現わしたりすることができ、また、「笑い顔だけ」現れたりもできます。「この者の首を斬れ」と命令された兵士たちが「首がないので斬れません」と言うのは可笑しいですよね。それより前の場面では、「チェシャ―猫が消えてニヤニヤ笑いだけが残った」なんて表現までされています。現実をありのままに認識しすぎることなく、もしこうだったら、もしこうだったら、と抽象的思考を駆使できるようになることが重要であること。ただ知識を詰め込み、規則に従順な心を作るだけでは知性や道徳が身につかないこと。むしろ、知識からどう発想し、規則からどう抜け出すか、そこに「解」があることを示唆するような表現はむしろ大人に突き刺さるもので、ここにも大ロングセラーの秘密があるのではないでしょうか。作中に出てくる、「1日に2回正しい時刻を指す時計と2年に1回正しい時刻を指す時計では、どちらが正確か?」などという問いも、一見いつものナンセンス言葉遊びに見えて、実は頭を捻ってみると面白い問題になっています。

「アリスをモチーフにした作品」達は気軽に見ても/聞いても/読んでも楽しいものですが、原作の「アリス」となると、特に日本語訳版では、純粋に楽しむというよりむしろ文学の歴史探求のような意味合いが強くなってしまい、それを面白いと思える人にならば是非、読んで頂きたいですが、もっと気軽に読書を楽しみたいという方々にとっては決しておすすめできる作品ではないでしょう。